「カン」と「ひらめき」


『単純な脳、複雑な「私」』 (池谷裕二著)
の中にあった話です。


   「カン」と「ひらめき」は、日常生活ではほぼ同じ意味合いで使いますが、脳科学の研究者からすると、

まったく別物と考えられるそうです。


  「カン」 -- 理由は分からないけど、そのような気がするもの

           たとえば、テストの山勘。
           「ここが出ると思う。理由はないけど」

           (理由がある場合は除きます。先生が言っていた、一番大事なところだから、、、など)

  「ひらめき」 -- 分からないときは分からないけど、一度分かってしまうと簡単だと思えること

           たとえば、算数や数学の図形問題。
           補助線が一本引けるだけで、世界が変わって見えます


「カン」というのは、実は”膨大な経験に裏打ちされているもの”ではないかと思います。

「カン」を鍛えたければ、とにかく経験というインプットを脳に流し込む!

そうやって鍛えられていない「カン」は、逆にとても脆く、頼りないものだと思います。

だから、年齢を重ねるにつれ、「カン」はよくなっていくものではないでしょうか。



一方、「ひらめき」は、頭の柔らかさと、引き出しの多さです。

引き出しの多さは、やはり経験から生まれます。

自分の好きなことだけに限定されず、幅広くいろいろなことに興味を持つことが、引き出しを増やします。

しかし、頭の柔らかさだけは、やはり若い方が有利かもしれません。

さまざまな経験は、脳をどんどん固定化していくものだと思います。

もちろん、その固定化は必要あってのことで、合理的なことなのですが、

「ひらめき」からは遠ざかってしまう。

如何に柔軟性を保ちながら、引き出しを増やしていくか、それが「ひらめき」を伸ばすポイントなのでしょうか。



社会に出て活躍するには、論理的思考などはもちろんのこと、

この「カン」や「ひらめき」の力も非常に重要になってきます。

しかしこれらは、学校の勉強では身につかないものと思われていないでしょうか?

そして、「論理的思考」よりも、この「カン」や「ひらめき」の方が、簡単なものと思われていないでしょうか?


この2者を分けるものは、「感情の揺らぎ」の影響を受けるかどうか?

受けた方がいい場合もあれば、受けない方がいい場合もある。

要は、どっちもできなければ仕方がないし、

一生かけて磨いていくものですよね。


なんだか支離滅裂。




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画像は、イメージです。
おもしろ画像」さんからお借りいたしました。
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