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「わかりやすさ」至上主義の恐怖

30歳前後に、その子がどんなおとなになっているか。 仕事ができて、毎日が充実し、周りと良好な関係を築き、 経済的・精神的・時間的にも少し余裕があって、判断力がある。 それぞれのタイプはあるでしょうが、だいたいそんなおとなだったらいいな、 そのために、今から準備できることは何? ぜひ今からやっておくべきことは何? そんなことを、一人ひとりに合わせて、日々考えています。 前置きがだんだん長くなっている、新・青山Fプレップスクールです。 そんなはずはないと思うのですが、 こんなぼくでも、「説明がわかりやすい」と子どもたちから言われることがあります。 じゃあ、普段いったいどんな授業を聞いているのか、、、非常に不安になります。 それはそれとして、ぼくが前から言っている 「わかりやすさ」を重視しすぎることは、ちょっと危ないことだよ、 ということについては、少しずつ理解される場面も増えてきました。 ここ最近の話題としては、 いわゆるトランプ現象、舛添要一都知事の問題、イギリスのEU離脱など。 わかりやすい説明に、思った以上に多くの人が飛びついてしまう。 そして、その結果、思ってもみなかったことが起こる。 結果として、誰の得にもならないことになったりしてないだろうか。。。 もちろん、政治家や官僚、社会的責任の大きい大企業、学者。。。 といった、これまで権威とされてきた人々の中で、 【依らしむべし、知らしむべからず】 とばかりに、またはわかりにくい表現が権威の象徴であるように使われてきた歴史はあるのでしょう。 それは、改めるべき。 情報を出す側は、できるだけわかりやすく出す必要はあります。 一方、ぼくたち一般庶民は、、、 わかりやすい方がもちろんありがたくはありますが、 たとえわかりづらい表現であったとしても、理解できる能力が必要だと思うのです。 または、自分が理解できるための適切な質問をする能力。 対話しながら授業を進めていること、 「先生」がわかりやすく説明する、というスタイルではなくて、 一緒にテキストを読んで、一緒に理解を進めていくというスタイル。 それは、10年後、20年後に活きてくると思います。

新・青山Fプレップスクールとは何か、そして何であるべきか。

新・青山Fプレップスクールは、 既存の教育機関を羨望する必要のない教育システムを持っています。 他塾・学校のものまねをして作った塾ではありません。 むしろ、他塾のほうが手本にしたいと思う塾であるべきだと考えています。 少数の「教育者」、「先生」によって支配されるのではなく、 教わる側の多数が参加するぼくたちの塾は、 時に民主的システムであると言われます。 このシステムでは、すべての生徒、先生は平等な権利を持ちます。 将来、公的な生活に奉仕することによって得られる名誉も、 その日との努力と業績に応じて与えられるものであり、 生まれや育ちによって与えられるものではありません。 貧しくとも、将来公共に利する行為を為そうとする者は、 その貧しさによって学習の機械から外されることはありません。 ぼくたちは将来、公的な生活に限らず、私的な日常生活でも、 完璧な自由を享受して生きていきます。 新・青山Fプレップスクールの卒業生の享受する自由は、 怠惰や嫉妬が渦巻くことさえ自由というほど、その完成度は高いものです。 それでいながら、日々の労苦を忘れさせてくれる手段でもある、 教養と娯楽を満喫し、また各種イベントも催されます。 ぼくたちの競争相手(?)は、 ごく若い時期から子どもたちに厳しい「教育」を施し、 それによって機械のような気質の持主の育成を目指しているが、 ぼくたちの塾では、、 それらの塾ほど厳格な「教育」を子どもたちに対して与えることはしていません。 それでいながら、卒業後は、彼らより劣る結果を示したことはありません。 ぼくたちは、試練に対するにも、彼らのように非人間的な厳しい訓練の末の 予定された結果として対するものではありません。 ぼくたちの一人一人がもつ能力を基とした、決断力で対します。 ぼくたちが発揮する勇気は、 「教育」に縛られた法によって定められたから生まれるのではなく、 一人一人が日々の生活を送る上で持っている、各自の行動原則から生まれます。 ぼくたちは、美を愛します。だが、節度を持って。 ぼくたちは、知を尊びます。しかし、溺れることなしに。 ぼくたちは、富を追及します。だがこれも、可能性を保持するためであって、 愚かにも自慢するためではありません。 新・青山Fプレップスク