新・青山Fプレップスクールとは何か、そして何であるべきか。

新・青山Fプレップスクールは、
既存の教育機関を羨望する必要のない教育システムを持っています。
他塾・学校のものまねをして作った塾ではありません。
むしろ、他塾のほうが手本にしたいと思う塾であるべきだと考えています。

少数の「教育者」、「先生」によって支配されるのではなく、
教わる側の多数が参加するぼくたちの塾は、
時に民主的システムであると言われます。

このシステムでは、すべての生徒、先生は平等な権利を持ちます。
将来、公的な生活に奉仕することによって得られる名誉も、
その日との努力と業績に応じて与えられるものであり、
生まれや育ちによって与えられるものではありません。

貧しくとも、将来公共に利する行為を為そうとする者は、
その貧しさによって学習の機械から外されることはありません。

ぼくたちは将来、公的な生活に限らず、私的な日常生活でも、
完璧な自由を享受して生きていきます。
新・青山Fプレップスクールの卒業生の享受する自由は、
怠惰や嫉妬が渦巻くことさえ自由というほど、その完成度は高いものです。

それでいながら、日々の労苦を忘れさせてくれる手段でもある、
教養と娯楽を満喫し、また各種イベントも催されます。

ぼくたちの競争相手(?)は、
ごく若い時期から子どもたちに厳しい「教育」を施し、
それによって機械のような気質の持主の育成を目指しているが、
ぼくたちの塾では、、
それらの塾ほど厳格な「教育」を子どもたちに対して与えることはしていません。
それでいながら、卒業後は、彼らより劣る結果を示したことはありません。

ぼくたちは、試練に対するにも、彼らのように非人間的な厳しい訓練の末の
予定された結果として対するものではありません。
ぼくたちの一人一人がもつ能力を基とした、決断力で対します。
ぼくたちが発揮する勇気は、
「教育」に縛られた法によって定められたから生まれるのではなく、
一人一人が日々の生活を送る上で持っている、各自の行動原則から生まれます。

ぼくたちは、美を愛します。だが、節度を持って。
ぼくたちは、知を尊びます。しかし、溺れることなしに。
ぼくたちは、富を追及します。だがこれも、可能性を保持するためであって、
愚かにも自慢するためではありません。
新・青山Fプレップスクールでは、貧しいことは恥ではありません。
しかし、貧しさから脱出しようと努めないことは、恥とされます。

ぼくたちは、詩的な利益を尊重しますが、
それは公的利益への関心を高めるためです。
なぜなら、利益追求を目的として行われた事業で発揮された能力は、
公的な事業でも応用可能であると思っているからです。
ここ新・青山Fプレップスクールでは、
身の回りの様々な事柄に対する無気力・無関心は、まじめさを愛することとはみなされず、
市民としての意味を持たない人間とみなされます。

結論を言えば、ぼくたちの学び舎である新・青山Fプレップスクールは、
すべての面で、あらゆる人にとっての学び舎であるといえます。
そして、ぼくたち一人一人は、この新・青山Fプレップスクールの卒業生であるという
名誉と、経験と資質の総合体であることによって、
一戸の完成された人格を持つことになるのです。

これは、単なる言葉の連なりではありません。
確たる事実であります。
ぼくたちの子の考え方と生き方によって、発展・継続してきた現在の新・青山Fプレップスクールは
それを実証しています。



ペリクレスの演説のパクリでした。

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