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(生きた教材から学ぶ:サッカーW杯編)決断の素晴らしさと、素晴らしさゆえの危惧

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ぼくは今、子どもたちの指導・監督・コーチング・各種アドバイスをする立場なので、思うところありまして。 昨日の夜のサッカーW杯、 セネガルvsコロンビア 日本vsポーランド 終電で帰って、後半15分くらいから、 つまり日本とポーランドがお互いボール回しをしているところをテレビ観戦しました。 (選手起用や試合経過は、帰りの道すがらチェックしていました) ◎ 快哉事 △ 危惧 ☆ 希望 ◎ 快哉事    なんといっても、批判を恐れず、リスクを取って勝負に出た。    選手がそれを理解し、納得し、行動した。    批判を恐れてリスクを取らないことが、むしろ最近の流行ですから、    これを拍手喝采です!! △ 危惧    一方では、結果が良すぎた。    監督の指示に従って、一致団結して行動することを是とする論調が強まるでしょう。    ただでさえ、「同調日本」    選手一人一人が、自分で考えることを放棄し、    監督の指示に従うこと、みんなに合わせることを絶対視してしまうと    結果として、批判を恐れて、リスクを取らない人が増えてしまうでしょう。 ☆ 希望    監督と選手は対等。    むしろ現場を肌で感じている選手のその場の判断こそが重要だと    ぼくは思います。    もちろん、単に反発や思いつき、自分勝手な行動は称賛されませんが、    そのレベルではどうせ高いところまではいけない。    さらなる高みを目指すなら、選手は選手で勝負して、    監督やコーチも真剣勝負して、    お互いとことんまで考えて話し合って納得すること。 「同じ日本人としてうれしい、誇りに思う」 という立場でもなく、 自分は涼しい部屋でビールを飲みながら、 「もっとやらんかい!盛り上がらんからつまらん!」 という立場でもなく、 確率を計算して、 「ルールの範囲内で勝つために合理的判断をすべき!」 という立場でもなく、 簡単な答えなんて見つからないから、 だからこそ一生懸命勉強して、自分で考えて、人と話し合って、 なんとか少しでも良い方向をもがいてあがいて試行する立場として。 うちの子どもたちには、 もちろんぼ

大垣(仮称)、ぱんがないって!!

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悲報! 大垣(仮称)、ぱんがないって!   「大迫、半端ないって」のイントネーションか、   「桐島、部活やめるってよ」のリズムで。 パンがないならどうするか? 悲嘆に暮れるのか、誰かのせいにしてグチグチ言い続けるのか。 パンがないなら、ケーキを作れ! 知恵を絞って、汗水垂らして、 もっと良いものを、これまでにないものを、自分の力で作ろう! 何か道があるはず! 何か方法があるはず! どうにか出来るはず! 後から振り返れば、あれが朗報だったと気づくはず。 信じているし、諦めないから、 一緒にがんばろう!!

どうしてぼくが、サッカーの予想を(得点から展開まで)バシッと当てられたのか(勉強にも通じる)

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⇒ 小学生の落書きです。結構うまい。 蹴球世界杯。 盛り上がってますね! (ほんとかな) 見ている生徒さんが結構いるので、話題にも載せています。 先日のコロンビア戦、 ぼくの戦前の予想はこうでした。 【2-1で日本が勝つ】   なんかふらっと日本が1点取って、   後半中頃に同点に追いつかれるけれど、   また後半最後の方で、ふらっと1点取って勝つ かなり近かったと思いませんか? 子どもたちを前に、鼻高々です(笑)! そして、試合後、 どうして当てられたのか、種明かしをしています。 これって、勉強においても大事なことだと思うので。 観点は2つあります。 1.まじめな観点    端的に言えば、日本が弱すぎたから。    戦前、あれだけ弱いと、相手も舐めるでしょう。    舐めるというか、当然、勝ち進む前提で考えるでしょうから、    初戦にピークを持ってくるはずがない。    ところが、スポーツ、試合、勝負、特に団体競技は何が起こるかわからない。    ふわっと隙を突いて、日本がたまたま1点取れば、展開が変わってきます。    なかなか追いつけないと、徐々に焦りも出てくるでしょう。    ムラの多いタイプは特に、良いときは良いけれど、悪いときは冷静さを失う。    実力的に考えて、いつかは同点に追いつかれる。    すると、相手は落ち着きを取り戻し、一気呵成に攻めてくる。    そこにまた、隙が生まれる。    ぽろっともう1点、日本が取っちゃうこともあるんじゃないの? 2.不まじめな観点    予想としての面白みと、仮説思考。    実力的に考えて、0-2で負けるでしょ、と予想しても、    おもしろくもなんともない。    スポーツに興味がある人ならたいていそのくらいの予想だろうし、    あとは、「日本がんばれ」の人が希望的観測と神風的なことを言うだけ。    日本が勝つかもしれない、という1つの仮説を立て、    そこに論理を付与していくとどうなるか。    みんなが言いそうなことなら、言う必要は無いわけです。    みんなが言わないようなこと、見落としているようなことがないかな?    そういうことであれば、言う意味がある。    そして

子どもの「むん!」っていう表情、わかりますか?

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言葉でどう表現したものか。 子どもの「むん!」っていう表情、 わかりますか? 目が見開いて、鼻の穴がちょっと開いている。 「よし、やったるで!」 そんな心境じゃないかと思うのです。 この表情が出ると、ぼくは心の中でガッツポーズをしています!

エビデンスだかカニデンスだか知らんけど、楽しないようにした方が良いと思う件

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これまでにないくらい急速に社会が複雑化している現代、リスク管理、コンプライアンスの重要性が増し、 また限られた予算を効率よく使うために、エビデンスを提示することを求められることも増えていると思います。 一部の声の大きい人のごり押しがまかり通った時代よりも、一歩前進とぼくは思います。 しかし一方では、特に個人の立場、特に若い人の立場に立った時に、果たしてそこで止まってよいのだろうかとも。(つまり、そこで止まってはいけないのではないかと) 歴史を振り返れば、前例主義・硬直した組織が敗れ去り、多くの人々を不幸にした「エビデンス」は、枚挙に暇がないほどでしょう。 それ以上に、個人にとってみれば1回限りの人生。18歳の夏は一度しかありません。 どこかの誰かが、「うまくいった」とされる事例は、 もちろん参考になる部分はあるにしても、「エビデンス」があるから大丈夫! とはならないはず。 実際には、いろいろな要素が複雑に絡み合い、ちょっとした偶然、 些細なボタンの掛け違い未来を大きく変えてしまうことだってあるでしょう。 たまたま現時点で「うまくいっている」ように見える事柄に、 どの程度の信頼を置いていいものでしょうか。 そんな楽をしようとせずに、 いつもこの瞬間瞬間で能力の限界まで考えて挑戦し、修正し、とにかく歩き続ける。 他人の「成功」をなぞるだけの人生って何なんでしょう。 仮に「成功」することはあっても、幸せになるとは思えない。 似たような意味で、東京中心の発想を、若い世代から変えていったほうが良いと思っています。 東京でやっていることをまねしたって(簡単に儲けられるかもしれないけれど) どんどん人が東京に集まるだけではないかと。 東京にはないもの、歴史や文化、自然も大切ですし、 東京を飛ばして一気に世界とつながっていくことも大切だと思います。 むしろ東京の人があこがれて、集まってくるような「前例のない」試みをすべきではないかと思います。 前例のないことについて、「エビデンス」を出すことが難しいです。 しかし、所詮「エビデンス」なんて失敗したときの言い訳材料に過ぎないのではないでしょうか。 そこに、時間と労力を費やすくらいなら、「懸命」に考え行動したほうが 将来の可能性は広がると思います。 『目が