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ぼくらが、サッカーW杯(ブラジル大会)日本代表から学んだ、1つの大事なこと (「らしさ」とは何か?)

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がんばっている人を全力で応援する、新・青山プレップスクールです。 サッカーのワールドカップ、盛り上がってないですね! 日本代表が負けてしまったからなのでしょう。 ================ いろんな事を言う人はいますが、 当事者が、大きなプレッシャーの中ででがんばった 選手、スタッフのみなさんに、 ぼくは敬意を表します。 一方で、ぼくたちはぼくたちで、 彼らの経験から、何かを学び取って、 ぼくたちの未来につなげていきたい、 そういうスタンスで、子どもたちと一緒に考えてみました。 ================ たくさんのポイントが挙げられましたが、 ぼくが一番、みんなに考えてほしいのは、【らしさ】について。 ■ 日本らしいサッカー ■ 自分たちのサッカー とは、何だったのか。 それは、ぼくたち自身に置き換えれば、 ◇ 自分らしさって何だ? ◇ ぼくらしい生き方って何だ? 自分がやっていて楽しいかどうかは、1つの重要な基準。 だけど、それだけでは、決められない。 社会の中で生きるぼくたちは、常にある程度は周囲のことを気にしなくてはならない。 たとえば、他人がすごく嫌がることを、自分も決して好きではなくても、 そこそこ我慢できるということがあれば、それはそれで「ストロング・ポイント」にできる。 他人が与えるものでもないし、「正解」があるわけでもない。 最初からうまくいくなんて、あり得ない。 試行錯誤して、失敗・惨敗・挫折・・・死屍累々を乗り越えて、 そのプロセスそのものが、 その人らしさを、少しずつ、つくっていくのだと思います。 結果は、時に残酷なものであることもあります。 今回のサッカーにおいても、何か少しの偶然の転がりで、 もしかしたら、勝てていたかもしれない可能性は、誰も否定できないと思います。 だから、結果を知ったうえで何か考えても、 あんまりおもしろくないと思うのです。 ================= 初戦: コートジボワール戦 直前の親善試合で課題となっていた、立ち上がりの守備の不安。 「ふわっと試合に...

ヤクルトファンのすゝめ (サッカーW杯を観て)

ぼくは最近、人生で一番たくさんサッカーを観ています。 平均すると、1日1.5試合くらい。。。(すみません) これだけ集中してみると、いろいろと自分なりにわかること、学べることが あるもんだなあと思っております。 ================= サッカーそのものも、大変興味深いですが、 日本代表の応援も、またおもしろいなーと思って見ています。 物心ついた時から、 ヤクルトスワローズ(プロ野球)を応援しているぼくですが、 つまり、勝ったら我ことのように、俺がすごいみたいに喜んで、 負けたら、選手や監督の批判をする、 ってのは、どうなんだろうなと思うわけです。 たしかに、外野から見てあれってことは、もちろんあります。 だけど、現場の監督や選手が、ギリギリの判断でしたことに対して、 どうして情報量が少なく、経験も少ない者が、 単なる思い付きで、何の責任もない立場から、あーだこーだと言えるものかと。 『自分たちの戦いをする』 選手たちは、それが如何に難しいか、わかったうえでの、 震えながらの発言だと思います。 相手は当然、それを防ごうとするわけで、 その相手の上をいかなければならない。 一番困難な道を、極限の状態で選んで、壁を乗り越えようとしています。 『自分たちのサッカーを信じて』 それで済むほど、世界(世間)は甘くないわけで、 だけど、最後の最後、腰を据えて戦うには、 自分たちを信じるしかない。 決して、ポジティブな意味でも、そしてネガティブな意味でもなく、 ニュートラルな気持ちで、精一杯頑張ってきてほしいと思います。 勝っても負けても、(当たり前ですが) ぼくはどちらでもいいです。 選手たちが、持てる力を発揮してくれたらと思います。 そして、外野でブーブー言っている人たちには、 完全にしらけきってしまった人たちには、 一度ヤクルトファンになった方がいいんじゃない? と、アドバイスしたいです。(笑)

『本当の戦争の話をしよう』 (Tim O'Brien著 村上春樹訳)

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20年後の自分たちのための、新・青山プレップスクールです。 個人的なことで。 年に1回くらい、読みたくなります。 決して、おもしろい本ではありません。 なるほど!と納得するものでもないし、 何かのためになるということもありません。 ただ、存在感に圧倒され、 時々手を伸ばしては、打ちのめされております。。。 本当の戦争の話というのは  全然教訓的ではない。  それは人間の徳性を良い方向に導かないし、 高めもしない。 かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。 また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。 もし教訓的に思える戦争の話があったら、 それは信じないほうがいい。 もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、 廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、 君は昔からあいも変わらず繰り返されている  ひどい大嘘の犠牲者になっているのである。 本当の戦争の話には一般法則というものはない。 それらは抽象論や解析で簡単にかたづけられたりはしない。 往々にして、本当の戦争の話には話のポイントさえ存在しない。 それは本当の話なのか? あることはたとえ実際に起こったとしても、 なおかつまったくの嘘っぱちでありうるのだ。 あることは実際に起こっていないかもしれない。 でもそれは真実以上の真実でありうる。 結局のところ、 言うまでもないことだが、 本当の戦争の話というのは、  戦争についての話ではないのだ。  絶対に。 それは太陽の光についての話である。 それは君がこれからその河を渡って山岳部に向かい、  そこでぞっとするようなことをしなくてはならないという朝の、 河の水面に朝日が照り映える特別な様子についての話である。 それは愛と記憶についての話である。 それは悲しみについての話である。 それは手紙の返事をよこさない妹についての話であり、 何に対してもきちんと耳を傾けて聴こうとしない人々についての話である。 長い...