主体は学び側にあることは、決定的な違いになる
何からでも学べる、 誰からでも学べる、 何でも学べる、 そして、それを現実的な状況に結び付けて考えて、行動できる。 一人一人、持って生まれた個性、 これまで蓄積してきた知識や経験、 育った環境、家族関係、友人関係、、、 みんなそれぞれです。それらを所与のものとして、自分の目の前の問題を解決していくためにはどうしたらよいか。 単に知識を分かりやすく伝えるだけでは足りない、 テストの点数が大きな数字になることは、1つの経験に過ぎない。 入学・進学も、きっかけになるかもしれない。 だけど、せっかく10代の多感な時期に、それなりの時間と労力をかけてやることであれば、もっと多くの果実が得られるべきではないか。 学校で習った微分・積分が、自分の人生とどのように関連しているのか。 カントの哲学から、今の自分が学べることは何か。 英語を読み書きできるだけでなく、根底にある英語の哲学は何か。 ・・・ 想像力の及ぶ範囲をどれだけ広げられるか、 頭の中に、どれだけの多様性を受け入れ、免疫を作ることができるか。 単に、「目に見える学力」を伸ばそうと思えば、余計な枝葉は切り取るべきです。 そしてそれを今、必要としている子もいることも事実。 しかし一方では、その段階にない子に対しては「目に見える学力」を伸ばすことは、むしろ害になることすらある。 いろいろなことが現実として起こる社会において、 組織上層部の手足として動くだけで大丈夫なのだろうか。 様々な情報が流れる中で、どう取捨選択するか、そもそも取捨選択すべきなのか。 自分の頭で考え、行動するために、 自分の判断は信頼に値するのか。 歴史の中にも、数学の中にも、文学の中にも、自然界の中にも、 マンガやアニメの中にも、そして現実に生きているたくさんの人たちの中にも、 さまざまなヒントが提示されている。 えり好みせず、何でもかんでも片っ端から、吸収尽くそう。 ====== 教育熱心な方々と、 どうも話がかみ合わないと感じることがあったのですが、 この辺りのことなのだと最近ようやく気が付きました。