(FOI-File6) ぼくと、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。

【以前の記事はこちら(あらすじなど)】

(FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」)
(FOI-File1) 中学生と、Justice!
(FOI-File2) 中学生と、Justice!
(FOI-File3) 小学生と、Justice!
(FOI-File4) 高校生と、Justice!
(FOI-File5) 東大生と、Justice!


さてでは、ぼくの回答(解答じゃないですよ!)


★1-1: 直進して5人を轢くか、曲がって1人だけ犠牲になってもらうか?

ぼくならば、直進すると思います。
気取った言い方をすれば、「命の重さは、∞」
1人の命も無限大ならば、5人の命も無限大です。
どちらが大きいかは、ぼくには判断つきません。

いくら5人を救うためとはいえ、
本来サイド・トラックにいた時点で、
ぼくが何もしなければ、事故に会うはずもなく、
今回の事故とは無関係なはず。
その人を、「わざわざ」巻きこんで、殺してしまう必然性は
ぼくには考えにくいです。

一方、亡くなってしまう5人は、本当に気の毒だと思います。
しかし、だからと言って他の人の命を奪って、
その命の犠牲を払っても良いとは、ならないのではなかと。

別の見方をすれば、
助かった5人が、亡くなった1人の命の重さを一生背負っていき、
必要に応じては、その遺族に報いるようなことをするならば、
1人が5人を背負うよりも、負担が軽くて済むだろう、とも見ることはできます。

しかしこの場合、助かる人にも(そして助からない人にも)、
この事故に対する責任を負わせることは酷であり、
したがって、それはすべきでないと思います。

人は所詮は、いつか必ず死ぬわけですが、
その人の命を、誰か他人が判断して、「こいつは死んでも仕方ないだろう」と
処置することは、いかなる場合においても、
あってはならないと、(この授業で言う、categorically wrong だと)
ぼくは考えます。


★1-2: 隣の太った人を、押す?

したがって、押しません。


★2-1: 重篤な1人を救うか、比較的軽症の5人を救うか

これも、大変厳しい判断を要求されていますが、
ぼくであれば、
「重篤な一人を救う」
べきだと思います。

医療行為自体が、「他人の生命を扱う」難しい問題をはらんでいますが、
苦しがっている患者がいて、
自分がその人を救う力があるのであれば、
他にどんなことがあったにせよ、
その人を救うべきだと思います。

他の人を救うために、ある人には犠牲になってもらっても仕方ない。
そういう判断は、やはりすべきでないと。
医者であれば、
目の前の患者を、その重篤な緊急性の高い順だけを
基準として判断すべきではないか、
と、ぼくは考えます。


★2-2: 健康な1人を犠牲にする?

ということで、これは言うまでもなく。


★ 結論

こと、命に関する問題では、
『人為的』なことはなるべくすべきではない、
と、ぼくは考えます。

もちろん、最初のケースにおいて、
サイド・トラックに誰もいなければ、それは曲がるべきだと思います。
しかし、そうでなければ、曲がることは、人為的にその人を殺すことであると、
ぼくは考えます。

この考えは、完璧ではありません。

もっと極端な例を挙げれば、
もし自分の前に、大バカな為政者がいて、
彼が今まさに、核ミサイルのボタンを押そうとしている。
彼を殺す以外に、それを止める手立てがないとしても、
ぼくはやはりその人を殺さないでしょう。
(それ以外の、止める手立てを最後まで模索する)

結果としては、人類が滅びることになるかもしれない。
多くの人が犠牲になるでしょう。
であるとしても、誰かが誰かを殺して良い、
ということを、認めるべきではないというのが、
そして、それ以外の方法で最善を尽くす(と言っても言葉が軽いですが)、
べきである、というのが、
ぼくの考えです。



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