すべては、「贔屓」から始まる

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。

学校(文部科学省なのか)や大手塾のやり方がどうかな~と
日々感じることが少なくありません。
その「違和感」のようなものがどこから生まれるのか。


そもそも、子どもたちに接する態度として、
「みんな平等」というのは、ありえないと、ぼくは思います。

『自分の子以外は、かわいいとは思わない』
これは、ぼくの妹が第一子を出産した後に言っていたこと。
(今はどう思ってるかしらないけど。。。)

極端ですが、でも、そうだと思います。
「この子をなんとか一人前にしなければ」
「この子には良い教育を与えたい」
「うちの子は、何か持ってるんじゃないか(親ばか含めて)」

そういう気持ちが、すべてのはじまりではないかと思うのです。

ぼく自身の過去を振り返ってみても、
勉強が楽しいなと感じたり、
いろんな物事に前向きに積極的に慣れたり、
結果いろいろ良い方向に向かったタイミングには、
必ず、「目を掛けてくれる」先生がいたり、友達(それもぼくにとっては師)がいたり。


それは、見方によれば、「贔屓」と映るかもしれません。

でも、当たり前でしょ。
1人の先生が、20人も30人も(ぼくのころは40人近く)
カリキュラムが厳密に決まっている中で、
1年かそこらでどんどん入れ替わってしまう生徒を
一人ひとりに完全に対応するなんて、不可能でしょう。

アメリカの大学が、授業をインターネットで無料完全公開しているのも、
突き詰めれば、
そこにはそんなに価値はない
ということの表れだと思います。

流れ作業みたいのは、
たしかに知識のインストールという意味では、効果はあると思います。
いくら段階別にしようが、レベル別にしようが、
所詮はインストール作業。
それをやる人は、「教育者」というよりは、「インストーラー」
「インストーラー」は、バカでも出来るし、儲かります。


本当にその子にとって為になるのは、
その子にとっての師の見つけ方を教えてあげることじゃないかなと。

その子にとっての師は、
現実に目の前にいる先生や、友達の中にも見出せるでしょうし、
書籍の中には、かなり大量に見出すことはできるでしょう。
また、自分の心の中にも見出すことができるかもしれません。

今だと、ネットの向こう側にもいるのかもしれませんね。


いわゆる偉人伝のようなものを読んでも、
どこどこの学校に行ったから、偉くなれた
みたいなものは、見たことがありません。

人が人として成長するには、
必ず人と人との出会いがあり、心の交流が(書籍を通したものも含めて)
あるものだというのが、ぼくの根底にはあります。

まあ、そう考えると、そしてそれをやろうとすると、
とても大変で、かつ正解のない、ゴールのない、いばらの道なのですが、
そして、そんな重要なで、面倒くさいことを実はぼくは好きではないのですが、、、

乗りかけた船といいますか、
やると決めた以上は、『完璧』を目指したいのが性分のようで。。。

この子には、今、これを勉強して欲しいな。
この勉強を通じて、こういう面に気づいて欲しいな。
そこに興味を持ったんだったら、ついでにこんな勉強もしたらいいな。
この子は、こういうところをもっと伸ばしてあげると良いな。
この子は、良いところを伸ばすためにも、最低限これだけは身につけて欲しいな。
。。。


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