(英語) 表層と本質
20年後の未来のために、青山プレップスクールです。
月曜: 英語
火曜: 数学
水曜: 国語
木曜: 理科
金曜: 社会
土日: それ以外
最近、とても困っていることがあります。
小学生でも、中学生でも、高校生でも、東大生でさえ、
本当にみんな、表象的なことにものすごく引っ張られて、
事の本質の方が、おざなりになるんだな~、と。
英語が苦手な子が特にその傾向がありますが。。。
極端な例を出しますね。
『赤い花』
と言った場合、結局それは何?と聞いたら、何ですか?
『花』
ですよね。
ところが、『赤』と答えてしまうのです。
これはとても極端な例ですが、
これに類することは、かなり日常的に見られます。
それが花かどうか、ということよりも、「赤い」という性質の方が、
事の中心にすり替わってしまっているのですね。
取り違えるというよりは、そっちの方が本当に大事だと思ってるんだな、と最近感じます。
(もし、赤が言いたいのであれば、『この花の赤』ってなるはずなんですけど。。。)
少し話はそれますが、
全然別で、ぼくが前から気になっていること。
それは、とても一方向に流れやすいということ。
『○○が良い』
といえば、バーっと、○○に群がる。
今度は、『▲▲が良い』と聞けば、▲▲へ。
『××は、ダメ』
といえば、徹底的に××はダメ。
たとえば、
『楽観的に物事を考えることが大切ですよ』
『常に最悪のケースを想定して、手を打っておくべきだ』
こんなことを平気で混ぜて話されてしまうと、
ぼくなんかはかなり混乱してしまいます。
というよりは、事はそんなに単純ではないと思います。
ぼくがよく使う言い回しは、
『悲観的な楽観論者であれ』
意味としては、最悪最低の状況、ほんとうにギリギリの状況においては、
楽観的であることが望ましいと思います。
どんなピンチでも、『なんとかなるさ!、なんとかできるさ!』 と最後の最後で思っていることは、
生きる上ではとても大切だと思います。
しかし、年がら年中それではやはりおかしい。
基本的なスタンスとしては、悲観論者のようであり、
あらゆることに気を配って、きちんと物事を進めておく必要があると思うのです。
そういう意味で、『悲観的な楽観論者であれ』 とはよく言うのですが、
<これが、前の話しにつながるのですが>
これが、全く逆に解釈されてしまうのですね。
楽観論者であれ何であれ、悲観的に見えるんだったら、それって悲観的でしょ。
表層に現れるものですべてを解釈しようとするんですね。
だから、ぼくの言っていることも、『悲観的であれ』みたいに解釈されちゃうんですね。
勉強しなさいよ、っといっても、
ぼくは、
【表層を飾るんではなく、自分の本質、感性を磨きなさいよ】
という意味でお話しするのですが、
【資格を取るのか!】
【新しい知識を身につけるのか!】
【インターネットで調べよう!】
【誰かに聞いてみよう!】
そんな反応になって返って来てしまうのは、
何とも悲しいことなのであります。。
算数をやっていても、『この問題ってつるかめ算だよね』
別に、つるかめ算が本質ではありません。
数ある解法、考え方の1つにすぎません。
英語関係なかった
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^^
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本当にみんな、表象的なことにものすごく引っ張られて、
事の本質の方が、おざなりになるんだな~、と。
英語が苦手な子が特にその傾向がありますが。。。
極端な例を出しますね。
『赤い花』
と言った場合、結局それは何?と聞いたら、何ですか?
『花』
ですよね。
ところが、『赤』と答えてしまうのです。
これはとても極端な例ですが、
これに類することは、かなり日常的に見られます。
それが花かどうか、ということよりも、「赤い」という性質の方が、
事の中心にすり替わってしまっているのですね。
取り違えるというよりは、そっちの方が本当に大事だと思ってるんだな、と最近感じます。
(もし、赤が言いたいのであれば、『この花の赤』ってなるはずなんですけど。。。)
少し話はそれますが、
全然別で、ぼくが前から気になっていること。
それは、とても一方向に流れやすいということ。
『○○が良い』
といえば、バーっと、○○に群がる。
今度は、『▲▲が良い』と聞けば、▲▲へ。
『××は、ダメ』
といえば、徹底的に××はダメ。
たとえば、
『楽観的に物事を考えることが大切ですよ』
『常に最悪のケースを想定して、手を打っておくべきだ』
こんなことを平気で混ぜて話されてしまうと、
ぼくなんかはかなり混乱してしまいます。
というよりは、事はそんなに単純ではないと思います。
ぼくがよく使う言い回しは、
『悲観的な楽観論者であれ』
意味としては、最悪最低の状況、ほんとうにギリギリの状況においては、
楽観的であることが望ましいと思います。
どんなピンチでも、『なんとかなるさ!、なんとかできるさ!』 と最後の最後で思っていることは、
生きる上ではとても大切だと思います。
しかし、年がら年中それではやはりおかしい。
基本的なスタンスとしては、悲観論者のようであり、
あらゆることに気を配って、きちんと物事を進めておく必要があると思うのです。
そういう意味で、『悲観的な楽観論者であれ』 とはよく言うのですが、
<これが、前の話しにつながるのですが>
これが、全く逆に解釈されてしまうのですね。
楽観論者であれ何であれ、悲観的に見えるんだったら、それって悲観的でしょ。
表層に現れるものですべてを解釈しようとするんですね。
だから、ぼくの言っていることも、『悲観的であれ』みたいに解釈されちゃうんですね。
勉強しなさいよ、っといっても、
ぼくは、
【表層を飾るんではなく、自分の本質、感性を磨きなさいよ】
という意味でお話しするのですが、
【資格を取るのか!】
【新しい知識を身につけるのか!】
【インターネットで調べよう!】
【誰かに聞いてみよう!】
そんな反応になって返って来てしまうのは、
何とも悲しいことなのであります。。
算数をやっていても、『この問題ってつるかめ算だよね』
別に、つるかめ算が本質ではありません。
数ある解法、考え方の1つにすぎません。
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