(英語) 表層と本質

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。

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最近、とても困っていることがあります。


小学生でも、中学生でも、高校生でも、東大生でさえ、

本当にみんな、表象的なことにものすごく引っ張られて、

事の本質の方が、おざなりになるんだな~、と。



英語が苦手な子が特にその傾向がありますが。。。



極端な例を出しますね。


『赤い花』


と言った場合、結局それは何?と聞いたら、何ですか?

『花』

ですよね。


ところが、『赤』と答えてしまうのです。


これはとても極端な例ですが、

これに類することは、かなり日常的に見られます。



それが花かどうか、ということよりも、「赤い」という性質の方が、

事の中心にすり替わってしまっているのですね。

取り違えるというよりは、そっちの方が本当に大事だと思ってるんだな、と最近感じます。

(もし、赤が言いたいのであれば、『この花の赤』ってなるはずなんですけど。。。)



少し話はそれますが、

全然別で、ぼくが前から気になっていること。

それは、とても一方向に流れやすいということ。

『○○が良い』

といえば、バーっと、○○に群がる。

今度は、『▲▲が良い』と聞けば、▲▲へ。

『××は、ダメ』

といえば、徹底的に××はダメ。



たとえば、

『楽観的に物事を考えることが大切ですよ』

『常に最悪のケースを想定して、手を打っておくべきだ』

こんなことを平気で混ぜて話されてしまうと、

ぼくなんかはかなり混乱してしまいます。

というよりは、事はそんなに単純ではないと思います。



ぼくがよく使う言い回しは、

『悲観的な楽観論者であれ』



意味としては、最悪最低の状況、ほんとうにギリギリの状況においては、

楽観的であることが望ましいと思います。

どんなピンチでも、『なんとかなるさ!、なんとかできるさ!』 と最後の最後で思っていることは、

生きる上ではとても大切だと思います。

しかし、年がら年中それではやはりおかしい。

基本的なスタンスとしては、悲観論者のようであり、

あらゆることに気を配って、きちんと物事を進めておく必要があると思うのです。


そういう意味で、『悲観的な楽観論者であれ』 とはよく言うのですが、



<これが、前の話しにつながるのですが>



これが、全く逆に解釈されてしまうのですね。

楽観論者であれ何であれ、悲観的に見えるんだったら、それって悲観的でしょ。



表層に現れるものですべてを解釈しようとするんですね。

だから、ぼくの言っていることも、『悲観的であれ』みたいに解釈されちゃうんですね。


勉強しなさいよ、っといっても、

ぼくは、

【表層を飾るんではなく、自分の本質、感性を磨きなさいよ】

という意味でお話しするのですが、

【資格を取るのか!】
【新しい知識を身につけるのか!】
【インターネットで調べよう!】
【誰かに聞いてみよう!】

そんな反応になって返って来てしまうのは、

何とも悲しいことなのであります。。



算数をやっていても、『この問題ってつるかめ算だよね』

別に、つるかめ算が本質ではありません。

数ある解法、考え方の1つにすぎません。




英語関係なかった


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