細かすぎる・地味すぎることは大変だけど、不可能を可能にする(魔法以外で)

 「基礎が大事」とはよく言われることです。

ただ、そこで言われている「基礎」とは何を指しているのでしょうか。

ーーー

私自身、中学校くらいまでは基礎なんてまったくバカにしていました。
正確に言うと、バカにするという意識もないほど、態度としてバカにしていたと、今振り返ればわかります。
(そして同じような子は、今もたくさんいます)

高校生になって、いよいよ学校の授業で話されていることが、バラバラに感じて、その時その時はたとえ少しわかったつもりになっていても、問題を解けと言われると解けない。何をどうしていいのか、まったくのノーアイデア。

さて困ったなと(さすがのバカの私も気がついて)友だちに教えてもらいました。
「何をどう勉強したらいいの?」

その時教えてもらったのは、
「教科書の例題を毎日1、2問解いたらいいよ」

友だちに言われたことはすぐに信じるタイプなので、まあやってみた・・・というところから、私の勉強に対する考え方などが変わりはじめました。そしていつも思っていたことは、「基礎って何だろう?」

たまたま最初のきっかけは、教科書の例題を解くことでしたが、
ただ簡単な問題を解くことでもなさそうだ、と思うようになり、
難しい応用問題を解いているときに、基礎が固められているように感じたり、
一度「わかった!」と思ったことが、その後何度も「上書き」されたり、
友だちがいろいろとおもしろい考え方をしていることに気づくようになり、
そうなってくると、別に問題を解かなくても、
「一つのアイデアが、どれだけの応用範囲を持っているのか」
なんてことを考えていると、ごく少ないアイデアでいろいろなことができるようになり、
これがもしかしたら「基礎」と呼ばれるものなのかな。


それから少しずつ、いろいろなことができるようになってきて、
大学進学後も、仕事をするようになってからも、
ずっと新しいことを勉強していますが、
「最初が一番難しい」
といつも感じます。


すみません。私自身のことはあくまで一つの例に過ぎず、
大事なことではありません。

今の仕事をするようになって、いろいろな子を直に観察できるようになって、
改めて「基礎」について考えることが多くなっています。

□ いわゆる「基本問題」を解くことは、基礎を固めるのだろうか。
□ 英語の基礎って、単語なのだろうか。
□ そもそも「基礎」は科目ごとに異なるものなのだろうか。
結論としては、もっともっと細かいものだと私は考えています。

□ 何を見ているか
□ それを見た時に、何を考えているか
□ それまでの経験から、その子にとって「当たり前」となっていることは何か
□ 何が理解を妨げているのか

もっとまとめてしまうと、
「何をシグナルとして受け取って、何をノイズとして捨てているのか」


ーーー

所詮、「勉強」として行われていることは、
誰かが、わかりやすくなるようにと整理してくれたものの体系なので、
基本的には(それなりには)わかりやすいものです。

そして、「テスト」などで問われることは、
与えられた情報を用いて、合理的に考えていけば、誰でも必ずそうなるよね、ということ。
(だから、「解説を読めばわかる」という状態になるのは難しくない)

誰でもできることをする必要があるのか、とテストを批判する人もいますが、
事実をもとに、多くの人と合意できるための、一つの有効な手段です。
だから決してバカにしてはいけません。
「みんな違ってみんないい」では社会がバラバラになってしまいます。
一方で、何かの思想に多くの人が偏ることは、とても危険なことで、
だからこそ、「事実をもとに」というところが大切なわけです。
(ただし、「事実とは何か」という話に行き着くと、それはまた沼なのですが)


同じものを見て、もちろん感想は人それぞれでOKですが、
「合意」しようと思ったら、どこまでできるのか。

誰か偉い人が言ったから、ということではなく、
それぞれが勝手に考えているけれども、「合意」せざるをえない。
そんな「ギリギリのラインを探る」練習を、
勉強ではしているなあと思います。
それは学問においても、ビジネスにおいても、人間関係の構築においても、
同じものを見ていると思っている私たちが、
本当に合意できるのはどこまでで、
その合意の広さと深さを確かめ合うのがコミュニケーションなんだろうな。

それを長く続けてきたのは、
1つは、「数学」という学問で、
もう1つは、「文化や慣習」というもの、その先の「宗教」。
前者は極限まで慎重に合意形成に成功し、
後者は合意形成のコストを下げることで、大成功してきた。

つながりすぎてしまった未来において、
子どもたちは、誰とどんな合意形成をしていくのでしょうね。
1つは前者のアプローチ。事実を一つ一つ確認しながら進めていく。
もう1つは、後者のアプローチ。地球規模の「文化、常識、宗教」を構築すること。
両面で進むのでしょうね。


その大前提となるのは、そもそも受け取った情報の
何をシグナルとし、何をノイズとみるのか、というところからです。
ただ、
子どもたちを見ているとよくわかるのですが、
口で言うほど簡単なことではないのです。



このブログの人気の投稿

AIで一緒に学ぶ(遊ぶ)

選別から育成へ〈少子時代の教育〉 —— 今の入試は人権侵害!?