君たちはどう生きるか

人間というものが、いつでも、自分を中心として、
ものを見たり考えたりするという性質をもっているためなんだ。
それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になってくる。

しかし、大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。
人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、
大人の間にもまだまだ根強く残っている。
いや、君が大人になるとわかるけれど、
こういう自分中心の考え方を抜け切っている人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。
殊に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、
非常に難しいことで、こういうことについてすら、
コペルニクス風の考え方の出来る人は、非常に偉い人といっていい。
たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、
自分に都合の良いことだけを見てゆこうとするものなんだ。

しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、
人間には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、
自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、
世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。

お母さんも僕も、君に、立派な人になってもらいたいと、
心底から願っている。君のなくなったお父さんの、最後の希望もそれだった。
だから、君が、卑怯なことや、下等なことや、ひねくれたことを憎んで、
男らしい真直ぐな精神を尊敬しているのを見ると、
ーーなんといったらいいか、ホッと安心したような気持ちになるんだ。

君は、水が酸素と水素から出来ていることはしってるね。
それが一と二との割合になっていることも、もちろん承知だ。
こういうことは、言葉でそっくり説明することが出来るし、教室で実験を見ながら、
ははあとうなずくことが出来る。
ところが、冷たい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水を飲んで見ない限り、
どうしたって君にわからせることが出来ない。
誰がどんなに説明して見たところで、その本当の味は、飲んだことのある人でなければわかりっこないだろう。
<中略>
たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、すぐれた芸術に接したことのない人に、
いくら説明したって、わからせることは到底出来はしない。
殊に、こういうものになると、ただ眼や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、
それを味わうだけの、心の眼、心の耳が開けてなくてはならないんだ。
しかも、そういう心の眼や心の耳が開けるということも、実際に、すぐれた作品に接し、
しみじみと心を打たれて、はじめてそうなるのだ。
まして、人間としてこの世に生きているということが、どれだけ意味のあることなのか、
それは、君が本当に人間らしく生きて見て、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないことで、
はたからは、どんな偉い人をつれてきたって、とても教えこめるものじゃあない。
<中略>
だから、君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆかなければいけないんだが、
しかし、それにしても最後の鍵は、
ーーコペル君、やっぱり君なのだ。

だから、こういう事についてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、
真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。
君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、
少しもゴマ化してはいけない。

常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ


ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、
ーーコペル君、いいかーー
それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。

だから、コペル君、繰りかえしていうけれど、君自身が心から感じたことや、
しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない。
それを忘れないようにして、その意味をよく考えてゆくようにしたまえ。

だから、僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、
知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います。それで、僕は、これを
「人間分子の関係、網目の法則」ということにしました。
僕は、いま、この発見をいろいろなものに応用して、まちがっていないことを、
実地にためしています。

こうして、出来るだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、
学問というものなんだ。だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。
そして、そういう経験を前の時代から受けついで、その上で、また新しい経験を積んできたから、
人類は、野獣同様の状態から今日の状態まで、進歩して来ることが出来たのだ。
一人一人の人間が、みんな一々、猿同然のところから出直したんでは、人類はいつまでたっても猿同然で、
決して今日の文明には達しなかったろう。
だから僕たちは、出来るだけ学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。
そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。
骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことができないでいる問題のために、骨を折らなくてはうそだ。
その上で何か発見してこそ、その発見は、人類の発見という意味をもつことができる。
また、そういう発見だけが、偉大な発見といわれることも出来るんだ。
<中略>
しかし、そののぼり切ったところで仕事をするためには、いや、そこまでのぼり切るためにだって、
ーーコペル君、よく覚えて置きたまえ、--
君が夜中に眼をさまし、自分の疑問をどこまでも追っていった、あの精神を失ってしまってはいけないのだよ。


「練習なんかしないよ。ただ、おっかさんの手伝いを、ときどきしてただけさ。でも、君、
一つやりそこなうと、三銭損しちゃうだろう。だから、自然一生懸命やるようになるんさ・・・」

「いったい、君たちと浦川君と、どこが一番大きな相違だと思う?
「そうだなーー」
コペル君は、少々当惑したような顔をしました。そして、しばらくもじもじしていましたが、やがてさも言いにくそうに申しました。
「あのう、浦川君のうちは、--貧乏だろう。だけど、僕たちのうちはそうじゃない。」
「そのとおりだ。」
と、叔父さんはうなずいて、なおたずねました。
「しかし、うちとうちとの比較でなく、浦川君その人と君たちとでは、どんなちがいがあるだろう。」
「さあ。」
コペル君は、ちょっと返答に困りました。


人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。
どんなに立派な着物を着、豪勢な邸にすんで見たところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、
人間としての値打がそのためにあがりはしないし、高潔な心をもち、立派な見識を持っている人なら、
たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。だから、自分の人間としての値打に本当の自信をもっている人だったら、
境遇がちっとやそっとどうなっても、ちゃんと落着いて生きていられるはずなんだ。僕たちも、人間であるからには、
たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、
ーーまた、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、
いつでも、自分の人間としての値打にしっかりと目をつけて生きてゆかなければいけない。
<中略>
しかし、自分自身に向かっては、常々それだけの心構えをもっていなければならないにしろ、
だからといって、貧しい境遇にいる人々の、傷つきやすい心をかえりみないでもいいとはいえない。

コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。この言葉は、
「感謝すべきことだ」とか、「御礼をいうだけの値打がある」とかいう意味で使われているね。
しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。
「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、
われわれは、それに感謝する気持ちになる。それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」
という意味になり、「ありがとう」といえば、御礼の心持をあらわすことになったんだ。
ところで、広い世の中を見渡して、その上で現在の君をふりかえって見たら、君の現在は、
本当に言葉どおり「ありがたい」ことではないだろうか。
<中略>
君には、いま何一つ、勉強を妨げるものはないじゃあないか。人類が何万年の努力を以って積みあげたものは、
どれでも、君の勉強次第で自由に取れるのだ。


第一に君は、今まで君の眼の大きく映っていた偉人や英雄も、結局、この大きな流れの中に漂っている一つの水玉に過ぎないことに気がつくだろう。
次いで、この流れにしっかりと結びついていない限り、どんな非凡な人のした事でも、非常にはかないものだということを知るに相違ない。
ーー彼らのうちのある者は、この流れに眼をつけて、その流れを正しく押し進めてゆくために、短い一生をいっぱいに使って、
非凡な能力をそそぎつくした。また、ある者は、自分では個人的な望みを遂げようと努力しながら、知らず識らずのうちに、
この進歩のために役立った。また、中には、いかにもはなばなしく世間の眼を驚かしながら、この大きな流れから見れば、
一向役に立たないでしまった者もある。いや、偉人とか英雄とかいわれながら、この流れを押し進めるどころか、
むしろ逆行させるような働きをした者も少なくはない。そして、一人の英雄のしたことでも、そのうちのある事はこの流れに沿い、
ある事は流れにさからっているという場合もある。さまざまな人間が歴史の上にあらわれて来て、さまざまなことをやっているんだが、
結局、一人の人間のなしとげたことは、この流れとともに生きのびてゆかない限り、みんなはかなく亡んでいってしまうのだ。

その当時、ヨーロッパ諸国の軍隊は、一般に傭兵制度といって、雇い兵で軍隊を組織していた。兵士たちは給金を貰って、
その給金のために戦うのであった。ところが、フランスの軍隊を作り上げている兵士たちは、新政府によって新たに自由を与えられたフランスの民衆だった。
彼らは自分たちの愛する祖国のために、喜んで命をささげる人々だった。自由、平等、友愛、の旗印のもとに、新しい時代を生み出したばかりのフランスの人民には、雇い兵なんかが夢にも知らない、
勇気と精力とがあふれていた。


君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、
おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。
人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。
君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。


だからーー、だからね、コペル君、ここは勇気を出さなけりゃいけないんだよ。
どんなにつらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ。

また過ちを重ねちゃあいけない。コペル君、勇気を出して、ほかのことは考えないで、いま君のすべきことをするんだ。
過去のことは、もう何としても動かすことは出来ない。それよりか、現在のことを考えるんだ。
いま、君としてしなければならないことを、男らしくやってゆくんだ。こんなことでーーコペル君、こんなことでへたばっちまっちゃあダメだよ。
<中略>
そうすれば、君はサバサバした気持になれるんだ。

人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも、
ーーだから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、
あの思い出がなかったら、ずっとあとまで、気がつかないでしまったかも知れないんです。

後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえたんですもの。

少しも傷まないでどんどんとウロが大きくなってゆくものは、痛むものよりも、
つい手当がおくれ勝ちになるではないか。だから、からだの痛みは、誰だって御免こうむりたいものに相違ないけれど、
この意味では、僕たちにとってありがたいもの、なくてはならないものなんだ。
ーーそれによって僕たちは、自分のからだに故障の生じたことを知り、同時にまた、人間のからだが、
本来どういう状態にあるのが本当か、そのことをもはっきりと知る。
同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、
そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、
人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捉えることが出来る。

人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、
人間がもともと、憎みあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。
また、元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。

人間は、そんな自分勝手の欲望を抱いたり、つまらない見えを張るべきものではないという真理が、
この不幸や苦痛のうしろにひそんでいる。

人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、
過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。
しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、
ーー正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。


「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目醒めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、
私は見たことがある。」
これは、ゲーテの言葉だ。
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから誤りを犯すこともある。
しかしーー
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。


「学問や芸術に国境はない。」
こういう言葉は、君もどこかで聞いたことがあるだろうね。
全くこの言葉のとおりだ。ヒマラヤ山脈とか、ヒンズークシ山脈とか、崑崙山脈とか、アジア大陸の背骨といわれているけわしい山脈も、
また、タクラマカンのような大沙漠も、結局、すぐれた芸術の前進をさまたげることが出来なかったんだ。
千何百年の昔に、ギリシャ文明の流れが、こういう天嶮を乗り越え、それから支那の大陸を横切って、はるばる日本までとどいていたと思うとーー、
コペル君、ほんとうに驚かずにはいられないね。

日本人は、すぐれたものはすぐれたものとして感心し、ちゃんとその値打がわかるだけの心をもっていたんだね。
遠い異国の文物でも、すぐれたものにはこころから感心して、それを取り入れ、日本の文明をぐんぐんと高めて行った。そうして、
日本人も、人類の進歩の歴史を、日本人らしく進めていったんだ・・・

そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。ーー
君たちは、どう生きるか。




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吉野さんが己れを律するにきわめて厳しく、しかも他人には思いやりのある人ーーちかごろはその反対に、
自分には甘く、もっぱら他人の断罪が専門の、パリサイの徒がますますふえたようにおもわれますがーー
であることは、およそ吉野さんを知いとのひとしく認めるところでしょう。

私は、自分のこれまでの理解がいかに「書物的(ブッキッシュ)」であり、したがって、もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識にすぎなかったかを、
いまさらのように思い知らされました。

社会科学的な認識が、主体・客体関係の視座の転換と結びつけられている、ということの意味は、「へんな経験」の章のあとにつづく、おじさんのノート
ーーものの見方についてーーで、一段と鮮明になります。社会の「構造」とか「機能」とか「法則性」とかいうと、もっぱら「客観的」認識の対象の平面で受取られ、
しかも「客観性」は書物や史料のなかに書かれて、前もってそこにあるという想定が今日でも私たちの間にひろく行きわたっております。以前から問題になっている、
社会科学的認識と文学的発想との亀裂(それは同一人物のなかに両者が並存するのを妨げません)ということも、そうした想定に根づいているように思われます。
それにたいして、この作品の「おじさん」は、天動説から地動説への転換という、ここでも誰もよく知っているためにあまりにも当然としている事例をもち出して来ます。

天下り的に「命題」を教え込んで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのではなくて、
逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄を手がかりとして思索を押しすすめてゆく、という教育法は、
いうまでもなくデュウィなどによって早くから強調されてきたやり方で、戦後の日本でも学説としては一時もてはやされましたが、
果たしてどこまで家庭や学校での教育に定着したか、となると甚だ疑問です。むしろ日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、
先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。
いまや悪名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、
その傾向が教育の平等化によって加勢されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。
そうして、こういう「知識」--実は個々の情報にすぎないものーーのつめこみと氾濫への反省は、
これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育の振興」という名で求められるということも、
明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。
その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、--そのイデオロギー的内容をぬきにしてもーー
あの、私たちの年輩の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。

最後に亡き吉野さんの霊に一言申します。この作品にたいして、またこの作品に凝集されているようなあなたの思想にたいして
「甘ったるいヒューマニズム」とか「かびのはえた理想主義」とか、利いた風の口を利く輩には、存分に利かせておこうじゃありませんか。
『君たちはどう生きるか』は、どんな環境でも、いつの時代にあっても、かわることのない私達にたいする問いかけであり、
この問いにたいして「何となく・・・」というのはすこしも答えになっていません。
すくなくとも私は、たかだかここ十何年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、
ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。
そうです、私達が「不覚」をとらないためにも・・・。

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