100年前か? そして、許しがたいことを赦せるか
100年前か? と目を疑うようなことが起こります。
時代状況が1900年前後と似ていると以前から感じていたので、ぼくにはそのように見えるだけかもしれませんが。
歴史は繰り返す
歴史が繰り返すわけではない。ただし、社会にも因果関係はある程度はたらく。ある事象が原因となり、ある一定割合である結果を導く。
100年前のことは知ることができる(不完全にでも)。しかし、100年後のことはまったくわからない。そこで手がかりになるのは因果関係。しかし、自然科学のように再現性には乏しいので必然と捉えるのはむしろ危険。
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考えられることとしては、政治はますます子どもたちから遠い存在になるということ。一部の子を除いては、「政治は怖いもの」と映ってしまうでしょう。そうなると一部の人たちの声が、「全体の声」となりやすくなる。その流れがさらに、普通の人を遠ざける。
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子どもたちは、自分が参加して一員となれたり、自分の声が届く、自分の声が反映される、ものが大好きです。(実際には幻想であっても)
YouTube、アイドル、スポーツ、推し活、、、
逆に自分の声を聴いてくれない大人たちや学校?、教科書、、、おもしろくない。
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「絶対許せない!あってはならない!」ということはできます。ぼくも、ぼくこそ特に、暴力という手段は用いるべきではないと強く思っています。
しかし、がんばって、
「赦すよ」と言えたら、と思います。
声を聴いてあげられなくてごめん。ぼくでよかったら何でも話して。そして一緒に考えよう。今の仕事を通じて、そのように思考が変わってきました。
ねぎごとを さのみ聞きけむ 社こそ はては嘆きの 杜となるらめ
どんなに自分と違う意見でも、排除しない。できる限り赦す。(赦すという言葉は「上から」のように響くけれど、許しがたいことがあるという前提の話なので、敢えて)
そして逆に、ぼくも変なこと言うよ。