言葉を文字通りにしか解釈しない大問題


日大アメフト部の問題、国会でのうんざりするようなさまざまな問題、さまざまな企業のさまざまな不正。

「あり得ない!」と専門家が言えば言うほど、むなしく聞こえてしまいます。

* 藤井君や大谷君に対する「ありえない」は、
   楽しいニュースです!

各種問題がこの先ずっと、子どもたちの世代まで続くのかと思うとぞっとします。

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そもそもこれらの問題の本質は何なのか?

ニュースなどを見聞きしていると、話がねじ曲がっていると感じるのはぼくだけでしょうか。

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言った/言わない、指示があった/なかった、合った/合ってない、証拠がある/ないといった話は部分的な話に過ぎないと思うのです。
★★

「相手をぶっつぶしてこい!」と言葉では確かにあったのだとぼくも思います。しかし、あくまでルールの中での話であるのは当然とコーチは思っていたのでしょう。元々、強い言葉、日常ではあり得ない表現を使う文化的背景があったであろうことは、激しいスポーツの世界ではありそうなことだと思います。ボクサーがコーチから、「相手をボコボコにしてこい」と言われることはあるでしょう。だからといって、そのボクサーがボクシングの範囲を超えて相手をボコボコにするでしょうか。

もっと言えば、悪口として「死ね」などと言う人はたくさんいるでしょうし、聞いたことがある人も多いでしょう。だからといって、本当にその人が誰かの死を望んでいるか?「君の代わりに殺してきてあげたよ」といったら感謝されるでしょうか。


注) 日常から、特殊な言葉、「誤解を招く」恐れがある言葉は使わない方が良い。
注) 実際にそのようなことが起きてしまったのであれば、
注) 即座に止めに入ってその場で謝罪すべきであるという件は、
注) それはそれで狂ってるなと思いますが、今は置いておきます。
注) (もし、本当に「ありえない」なら、試合を中断・中止しなかった相手側や審判も同罪でしょう)

逆に国会では、特に言葉としては言っていなくても、状況の中で「わかるでしょ」ということが横行し、都合が悪くなれば、「そんなことは言っていない」で罪を問われることはありません。やくざ映画の親分が、直接は何も言わないことと同じです。
いわゆるご飯論法(「今朝、ご飯を食べましたか?」「いいえ、ご飯は食べていません」(パンを食べた))。「○○罪という罪はない」という発言は、その典型かと思います。
こんな屁理屈のやりとりに毎日何億円も掛けるならば、もっと他にお金の使い道があるのではないでしょうか。

言葉を直接文字通りにしか理解できない、または、わざとしようとしない。
『言われたことをやっていれば怒られない』ということなのでしょうか。
もしそうだとすれば、そういう文化はどこで育まれているのでしょうか。


言葉や文書、論理に対する過信、
人間に対する過信、(人間ってバカだよ。もちろんぼくも)
逆に言えば、総合的な判断の欠如が、共有できる常識がないこと、
そして過去の「事実」に焦点が当たりすぎて、未来に対して建設的な議論を積み上げられないことが、
今ぼくたちが当事者として、議論すべきことなのではないでしょうか。


一部の言葉だけを取り上げても、全体の状況はわからない。
インターネットの普及とともに、文字だけの情報が一人歩きする状況です。
しかし子どもたちは、『点を取る』、『試験に受かる』ための勉強しか教わっていませんし、余計なことも含めていろんな話をする年長者もそばに居ない状況が多いと思います。

ぼくの友人で、小学校でバスケットボールを教える手伝いをしている人がいるのですが、
しばらく前に言っていました。何度注意してもふざけている子がいたので、「真剣に練習しないなら帰れ!」と言ったらそのまま帰ってしまった。家に帰ってお母さんから「何で帰ってきたの?」と聞かれるとその子は「帰れと言われたから」と。不思議に思ったお母さんが問い合わせて、状況がわかったそうですが、言葉を文字通りにしか解釈できない問題は、今も身の回りにたくさんあるのではないかと思います。

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ちなみにですが、ぼくは違う文脈(英語の時制の話)の中で、言葉や文字と、
伝えたい事ってずれる場合があるよね、って話はよくしています。
それは、『過去形』の話。

過去形って、どういうことを言うときに使う表現?
「過去のことを言いたいとき」
とほとんどの子は伝えます。

もちろんそういう面はあるのですが、もっと隠された意味があるんじゃないかな?
たとえば、、、
「あなたは、むかし、かわいかった」
と言われたら、それってどういう意味だろう・・・

言葉と意味がずれることがあることをよく知って、
上手に使い分けることが、まだまだAIにはできないだろう、
人間にこそできることではないでしょうか。

国語は、特に丁寧に、超スローリーディングが良いなと思っています。

そして全体を通して、
普通に話をすること、きちんとコミュニケーションを取ることが何より大切だと思っています。(立場関係なく)

* 「わかった?」と聞くと、たいていみんな「わかった」と答えるけれど、
* 本当にわかってるの? いい加減な答えをしないでね。

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今、人類は1つの大きな分岐点に立っているのではないでしょうか。
人類の体や脳は、こんなに大きくて複雑な社会を生きていくようにはできていないはずです。せいぜいが数十人から数百人単位で狩猟採集しているのが、自然状態の人類の姿でしょう。認識力や言語の限界に近づいているように思えるのです。

そこでこれからの展開を考えると。

A: 押しの強い、声の大きい人の意見を通すために、その他の人はじっと我慢をする(現状)

B: 少人数のグループに分断して、慎ましく暮らす(かつて自然主義者や共産主義者が目指した世界)

C: 複雑な状況を、総合的に判断し、未来に向けて建設的な議論ができるよう、人類が進化する。言葉に代わるコミュニケーションの方法を発明しても良いかもしれません。


ぼくは、Cを目指しています。
微力ながら、人類のお役に立てたらと。

繰り返しになりますが、人間ってまだまだバカだなと思います。
ぼく自身に対しても、もちろんそう思います。
でも、だからこそ、少しでもましな方向へと努力し続けるものではないでしょうか。



***

一応断っておくと、ぼく個人としては、
ただ偉そうにしているだけのおっさんとか、
たまたま成功して天狗になっている人、
その周りに群がっておこぼれを頂戴しようとしている人、
上意下達の硬直した組織、
有無を言わせぬスパルタ式?の教育
など、虫唾が走るほど嫌いです。

ただ、個人の好き嫌いのことと、
未来志向で議論を構築することは、分ける必要があると思っています。

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