個別にこだわる訳3つ (勉強の外身ーー中身じゃないよ)
20年後の未来のために、青山プレップスクールです。
ビジネス的に考えるなら、
集団形式の授業にしたり、
コストを抑えるために動画の授業にしたり。
当然そう考えるべきなのでしょうが、
なんかぼくにはピンと来ないんです。。。
★★理由その1★★
「教える」は、一斉配信できても
「わかる」タイミングは、人それぞれ。
「わかる」ことは、過去の自分の経験とつながること。
過去の経験が異なれば、当然「わかり方」も異なる。
立ち位置の違いです。
★★理由その2★★
20年後は、みんなまったく違うことをしている。
同じ数学を学ぶにしても、
人それぞれ、学ぶ意味合いが異なると思うのです。
もちろん、そんなことをぼくが決められる、判断できるわけではないのですが、
その子その子で、目的が異なるから、伝え方も異なって当然じゃないかな、と。
★★理由その3★★
ぼくが本当に伝えたいのは、【勉強の外身】。
極論すれば、ぼくにとって【勉強の中身】は、どうでもいいのです。
時代が変われば、状況が変われば、立場が変われば、
勉強の中身はどんどん変化していきます。
しかし、勉強の外身は、中身に比べれば、普遍性が高い。
◆ 理解の仕方
◆ 暗記の仕方
◆ 気持ちのコントロールの仕方、
◆ 計画の立て方
◆ 計画修正の仕方、
◆ 本の選び方、読み方、利用の仕方、
◆ ものを見るということ
◆ 人に聞くということ、
◆ 疑問を持つということ、
◆ 自分の頭で考えるとは、どういうことか
・・・
もちろん、”中身”に興味を持つことによって勉強が進むことは、よくあることです。
理想的だと思います。
だから、一手法としては、否定はしませんが、
現実には、”中身”には一切興味がなくても、やらなければならないことがある。
そういうときの方法論は、持っておくべきではないかと。
だから、勉強の中身よりも、
どう裁いていくかの方法論の方が、価値が高いのではないかと。
しかし、勉強の外身については、みんな自然に習得してきたことですので、
逆に言えば、標準化されていない。みんな我流で、それぞれなんです。
だとすれば、個別に対応せざるを得ない。
以上のような理由で、どうしても個別(マンツーマン)にこだわってしまうのです。
もちろん、個別にやっていても、試行錯誤の毎日です。
ビジネス的に考えるなら、
集団形式の授業にしたり、
コストを抑えるために動画の授業にしたり。
当然そう考えるべきなのでしょうが、
なんかぼくにはピンと来ないんです。。。
★★理由その1★★
「教える」は、一斉配信できても
「わかる」タイミングは、人それぞれ。
「わかる」ことは、過去の自分の経験とつながること。
過去の経験が異なれば、当然「わかり方」も異なる。
立ち位置の違いです。
★★理由その2★★
20年後は、みんなまったく違うことをしている。
同じ数学を学ぶにしても、
人それぞれ、学ぶ意味合いが異なると思うのです。
もちろん、そんなことをぼくが決められる、判断できるわけではないのですが、
その子その子で、目的が異なるから、伝え方も異なって当然じゃないかな、と。
★★理由その3★★
ぼくが本当に伝えたいのは、【勉強の外身】。
極論すれば、ぼくにとって【勉強の中身】は、どうでもいいのです。
時代が変われば、状況が変われば、立場が変われば、
勉強の中身はどんどん変化していきます。
しかし、勉強の外身は、中身に比べれば、普遍性が高い。
◆ 理解の仕方
◆ 暗記の仕方
◆ 気持ちのコントロールの仕方、
◆ 計画の立て方
◆ 計画修正の仕方、
◆ 本の選び方、読み方、利用の仕方、
◆ ものを見るということ
◆ 人に聞くということ、
◆ 疑問を持つということ、
◆ 自分の頭で考えるとは、どういうことか
・・・
もちろん、”中身”に興味を持つことによって勉強が進むことは、よくあることです。
理想的だと思います。
だから、一手法としては、否定はしませんが、
現実には、”中身”には一切興味がなくても、やらなければならないことがある。
そういうときの方法論は、持っておくべきではないかと。
だから、勉強の中身よりも、
どう裁いていくかの方法論の方が、価値が高いのではないかと。
しかし、勉強の外身については、みんな自然に習得してきたことですので、
逆に言えば、標準化されていない。みんな我流で、それぞれなんです。
だとすれば、個別に対応せざるを得ない。
以上のような理由で、どうしても個別(マンツーマン)にこだわってしまうのです。
もちろん、個別にやっていても、試行錯誤の毎日です。