「気合」や「根性」は起爆剤だったり、最終手段だったり、はたまた不要なものであったり


甲子園の予選も進み、都道府県の代表も決まり始めています。

こんな暑い中、日差しを遮るものもない中で、歯を食いしばって投げる、最近では笑顔を絶やさずに大きな声を出してプレーする。そういう姿を美しいと言っている人たちの多くは、冷房の効いた部屋で、冷たいものを飲みながら、ソファーに寝そべってテレビを見ていたりします。古代ローマでも似たようなことはあったそうですね。

あ、そういうことを言いたいわけではなかった。

夏は、受験生にとっても「勝負を分ける」時期とされています。各予備校もさまざまな施策をうって、生徒集めに汗水垂らしています。

そういう私も受験生と接しているわけですが、この時期はとくに、「気合」や「根性」とはどう用いればいいのだろう、と考えています。どういうことかというと、「気合」や「根性」にも、良い面も悪い面もあるわけだから、その子にはどのようなアドバイスがあっているかな? と。

「気合」や「根性」が好きな子もいる

なかには、「気合」や「根性」が好きな子もいます。そうやって自分の気持ちを昂らせて高い目標に向かっていくのです。そういう子に対しては、私はライバルのようであろうと努めます。元気出して、声出して、時には挑発しあったり、煽ってみたり。「よーし、じゃあ次はこれをやってみよう!」、「なんか問題出してもいいよ。何出してもいいよ」

しかし一方では、他の「乗り切る術」も身につけてほしいとも思っています。「気合」頼りは意外と脆かったりもしますし、「燃料切れ」になってしまうこともあります。

私が心配しているのは、受験程度のことであれば気合で乗り切れるとして、将来他の困難に当たった時に、他に術がなかったら困るだろう。さらにもっと心配なのは、自分の「気合信仰」を他人に強要してしまうのではないか、ということです。

日本の歴史や中国の物語などの小話をすることもあります。力と勢いだけで乗り切るのは、なかなか難しいよね、と。

「気合」や「根性」がどうしても受け付けられない子もいる

一方で、「気合」や「根性」が最初からどうしても受け付けられない子もいます。もっとクールに、ずっとスマートに。

ただ気になるのはそういう子は、そもそも勝負をしたがらない傾向が強いということです。負けるかもしれない、失敗するかもしれない、成功するにはものすごい努力が必要だ、そう思った段階で、諦めてしまうのです。よくある「専門家の解説」や、ChatGPTくんからのアドバイスによると、「スモールステップで成功体験を積み重ねましょう」ということになるのですが(もちろんそれでうまくいく場合もありますが)、私は逆のアプローチを取ることがあります。それは大人の力を借りてでも素晴らしい体験を一度味わってもらう、というものです。「無理だなー、と思っていたのに実現できた!」という経験は後々さまざまな場面で生きてくると思います。しかしその際に、本人が感動することが大事で、それを大人側が強要してはなりません。「すごかったねー、楽しかったねー、すごいねー」こうやってしまうと子どもは逆に白けてしまうのではないかと思っています。なかなかに手が焼けますね。

こういう子たちには、「気合い入れろ!」と言っても響きませんし、そもそもどうしたら良いかもわかりません。しかし何かに熱中して取り組んでいる時、本人にはその意識がなくても周囲からは「今日は気合が入っているね」と見られることがあります。こういう子たちにとっての気合はあくまで「結果」であって意識的な行為ではないのです。

しかし、だからこそ敢えて「気合を入れてみる」という練習もしてみたりします。最終局面、最後のギリギリのところで踏ん張れるかどうか、今まで決して意識的に用いてこなかった「気合」を使うと、状況が変わってくるかもしれません。そういう引き出しの一つとして、練習しておいて損はないですよ、と。

人類の歴史に対する挑戦として

一般に、世の中の成功者と呼ばれるような人の話、偉人たちの逸話の中には、必ずと言って良いほど「気合」や「根性」が出てきます。確かに「岩に齧り付いてでも!」という強い意志が、絶望的な状況を変えたことは多々あったでしょう。むしろそういうものがない限りは、状況を大きく変えることはできなかった、と考えるのが自然であるともいえます。

しかし、「これまでできなかったから、これからも無理だ」と決めつけてしまっていないでしょうか。

確かに現代までは、「最後は気合」が通用した、むしろそれしか回答がなかったのですが、もしかしたらこれからの人たちが、もっと違う突破術を編み出すかもしれません。あくまでクールに、どこまでもスマートに。そういうスタイルに挑戦したい子には、私も最大限の知恵を絞って全面強力します。

「歯を食いしばって乗り越える、だから感動!」みたいなことがないなんて、人生おもしろいの?と現代人は思うかもしれませんが、何をおもしろいと思うかは少なくとも私には決められませんので。

余談:

三国志なんかを読んでいると、張飛がすぐに挑発に引っかかるわけですが、「そんなことある?」と子どもの頃は思っていました。しかし実際に人の会話などを見ていると、ある程度そういうこともあったりしますね。揶揄ったり、怒ってみせたり、バカの振りをしたり・・・ しかし今の子どもたちの会話を見ていると、みんな仲良く、争いはなく、本音をぶつけることもなく、ほわほわしてるなーと思います。それが良いか悪いかは決められない、新たな挑戦なのだなと捉えています。

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