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5月, 2018の投稿を表示しています

言葉を文字通りにしか解釈しない大問題

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日大アメフト部の問題、国会でのうんざりするようなさまざまな問題、さまざまな企業のさまざまな不正。 「あり得ない!」と専門家が言えば言うほど、むなしく聞こえてしまいます。 * 藤井君や大谷君に対する「ありえない」は、    楽しいニュースです! 各種問題がこの先ずっと、子どもたちの世代まで続くのかと思うとぞっとします。 ====== そもそもこれらの問題の本質は何なのか? ニュースなどを見聞きしていると、話がねじ曲がっていると感じるのはぼくだけでしょうか。 ★★ 言った/言わない、指示があった/なかった、合った/合ってない、証拠がある/ないといった話は部分的な話に過ぎないと思うのです。 ★★ 「相手をぶっつぶしてこい!」と言葉では確かにあったのだとぼくも思います。しかし、あくまでルールの中での話であるのは当然とコーチは思っていたのでしょう。元々、強い言葉、日常ではあり得ない表現を使う文化的背景があったであろうことは、激しいスポーツの世界ではありそうなことだと思います。ボクサーがコーチから、「相手をボコボコにしてこい」と言われることはあるでしょう。だからといって、そのボクサーがボクシングの範囲を超えて相手をボコボコにするでしょうか。 もっと言えば、悪口として「死ね」などと言う人はたくさんいるでしょうし、聞いたことがある人も多いでしょう。だからといって、本当にその人が誰かの死を望んでいるか?「君の代わりに殺してきてあげたよ」といったら感謝されるでしょうか。 注) 日常から、特殊な言葉、「誤解を招く」恐れがある言葉は使わない方が良い。 注) 実際にそのようなことが起きてしまったのであれば、 注) 即座に止めに入ってその場で謝罪すべきであるという件は、 注) それはそれで狂ってるなと思いますが、今は置いておきます。 注) (もし、本当に「ありえない」なら、試合を中断・中止しなかった相手側や審判も同罪でしょう) 逆に国会では、特に言葉としては言っていなくても、状況の中で「わかるでしょ」ということが横行し、都合が悪くなれば、「そんなことは言っていない」で罪を問われることはありません。やくざ映画の親分が、直接は何も言わないことと同じです。 いわゆるご飯論法(「今朝、ご飯を食べ

読んで良かった、大変だ。『収容所のプルースト』

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最近読んで、人に(子どもたちも含めて)薦めまくっている本です。 『収容所のプルースト』(ジョゼフ・チャプスキ) 読みどころは2つあります。 1.極寒の収容所。文字通り一寸先は闇の中で、捕虜たちの取った行動は?    ポーランド人画家であったチャプスキは、1939年、    ドイツとソ連による相次ぐポーランド侵攻によって、捕虜となる。    収容されたのは、ソ連領。破壊された教会跡が収容所となり、    零下40度の極寒の地で、昼間は強制労働、夜は南京虫だらけの毛布。    肉体と精神の極限、絶望の中、    捕虜たちは、人間性を保つ最後の方法として、    何の道具も要しない、記憶だけを頼りにある知的作業に取りかかった。    毎回、誰かが自分が一番よく知っていることを他のみんなの前で講義をする。    軍事、政治、文学・・・    目の前の現実とはあまりにかけ離れたテーマについて、耳を傾ける。    著者は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』    (A la recherche du temps perdu)の連続講義を行う。    本書は、その連続講義の再現したものです。 2.『失われた時を求めて』の解説本である    さっそく、原書を買ってみました。    ただ、ぼくが読むと200年くらい掛かりそうだな。。。    ということで。        英語版も買ってみました。            ついでに、日本語版も。         ぼくとしては、岩波版の方が読みやすいです。 興味を持ってくれた中学生、高校生がいるので、 一緒に少しずつ読んでいこうと思います。

めだかの学校で国語・算数・理科・社会・英語

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人間到る処青山あり 人間至る 処碧山あり 生きる場所、死ぬ場所、学ぶ場所は至る処にありますよね。 それを感じてもらうために、 1Fの水槽を 見ながら授業なんてことも、 時々やっています。 学びって、国語・算数・理科・社会と分かれているものではなくて、 いつでも、何からでも、自分次第でいくらでも広げられるものですよ。 一番大事なことは、「知ってる」って思わないこと。 「知ってる」と思うことで、好奇心の扉を閉じてしまわないこと。 主にメダカを飼っている水槽ですが、少なくない子どもたちはちらっと見ただけで、 「ああ、メダカね。知ってる」といってその後じっくり見ることをしないのです。 それはとても、もったいないこと。 その時その時のその子の反応で、話題は変わりますが、たとえばこんな話になったりします。 □ 名前の話:    メダカって、なんでメダカって言うんだろうね。    スジシマドジョウって何でしょう? ドジョウ? どんなドジョウでしょう。    ここに、日本語の論理の構造が見えてきます。    また、名前がわかることで「知ってる」と思った子がいるように、    名前を知ることってとても大切です。    どれかのメダカに、名前をつけてごらん。その瞬間から、そのメダカが    今までとは違って見えるよ。    君の名は、ってもの、そういうことかもね。 □ 一匹をずっと追いかけて見続けること:    今から1分間、一匹だけをずっと見てみよう。    やってみればわかりますが、なかなか集中力が必要です。    気を抜くと、目が無意識にすっと動いてしまうことに気がつくと思います。    たとえば、計算問題をやっているとき、    やはり自然に目が違うところを見ていることがあるよ。    そういうときに、計算間違いや、写し間違いが起こりやすいよ。    意図的に時々目を離した方が、結果としては追い続けやすいかもね。 □ なりきること:    どれか一匹を追い続けたら、今度はそのメダカがどんな世界を見ているのか、    想像してみよう。    そのメダカになったつもりで世界を見ると、いったいどんな世界が見えるかな?    これで作文書けそうだね。 □ 貝の速度、水草の

そろそろAIの助けとか、借りられるんだろうか

AI化というと、現状大きく2つの流れがあると思うのですが、ぼくが可能性があるなと思い興味を持っているのは、『人がより良く生きていくために、細かいレベルでアシストしてくれる機能』。(もう1つの流れは、『人間みたいなものを作ろう』) 【1.大きな目標: 「興味を持つ」、「わかる」が『わかる』】 【2.その応用分野】 【3.小さな目標: 狭い意味での「学習」の効果を飛躍的に上げる】 【4.その具体例】 【5.危険な目標: 膨大な「無意識領域」を活用可能にする】 【1.大きな目標: 「興味を持つ」、「わかる」が『わかる』】 ぼくがずっと興味を持っていること。 それは、人が「何かに対して興味を持った瞬間」、「理解した瞬間」、「できなかったことができるようになる瞬間」について、もっと科学的に調べられることがあるだろう、ということ。  今は、一対一で話をして、相手の反応を見ながら経験的に判断しているのですが、科学的に、生体レベルで(つまり無意識レベルで)起こっている反応を調べると、もっと具体的なことがわかって、場合によっては利用もできるのではないかということ。  ○ 人が何かに、「何それ!」と興味を持った瞬間 脳の中ではどんなことが起こり、それが生体レベルにどのような反応として表れるのか。ある程度リラックスした状態の中で、それまでのその人の『常識』からちょっと外れたことがあると、脳は勝手に興味を示し、瞳孔が開いたり、心拍数が上がったり、発汗量が上がったりしているのではないでしょうか。 それをもっと科学的に調べてみたい。 ○ 人が何かを理解した瞬間 授業で生徒に、「わかった?」と聞いても、あまり意味がないと思っています。生徒たちは、学校生活などを通して、「あなたの発している言語を聞いています」ということを、「わかった」と答えている場合が少なくないように感じます。ぼく自身の経験ですが、「わかった!」となった瞬間は、 A.今までよく知っていたことを使って、言い換えができるようになった。つまりこういうことか。 B.それまで全然違うことを考えてしまっていたことがわかった。なんだそんなことか。 C.それまで関連がないと思っていたことに意外な関連が見いだせて、頭の中でイメージが自在に動かせるようになる。たのしいなあ。 また、理解は段階的に進むように