「好き」に理由は必要か?(因果律の限界、または迂闊のすヽめ)

遊びを学びに、学びを遊びに。新・青山Fプレップスクールです。



好き」に理由は必要か?「なりたい!」に訳などあるのか?


算数が好き、医者になりたい、建築家になりたい(そのために東大に行きたい)、映画監督になりたい(そのために海外の大学に行きたい)、世界平和に貢献したい・・・

子どもたちは気軽に(うっかりと、迂闊にも)こんなことを言うものです。そんな時、ぼくは「どうして?」とはまず問いません。
「いいね!」「楽しそうだね!」「どんな映画をつくろうか」「それだったら、こういうアイディアがあるんだけど、どう?」・・・
ひとり一人とちゃんと話をする時間が、恵まれている。

「好き」に理由はいらない。
矮小な例で申し訳ないけれども、
ぼくは野球が好きで、ヤクルトが好きで、生き物が好きで、ドラえもんが好きで、スイカが好きで、夏が好きで、歴史が好きで、美しいものが好きで、「本当のこと」を考えることが好きで、仕事が好きで、特に今の仕事は好きで・・・
でもはっきり言って、理由を聞かれると困ってしまう。きれいにカッコよく説明できる理由なんてない。

逆の(ちょっと意地悪な)言い方をすれば、
簡単に理由を挙げられるようなものなんて、本当に好きなのかな?
あの人はかっこいいから、可愛いから、背が高いから、お金持ってそうだから、胸が大きいから、優しいからって、、、本当にその人のこと好きですか?
巨人は強いから好き(ごめんなさい。最近は強くない)な人は、本当に巨人が好きなのでしょうか?


「好き」に理由なんてない。
むしろうっかり、迂闊にも「好き」だと思い込んでしまうところが、人間の人間でしかないところ。
AI が発達しても、そう簡単には「うっかりロボット」は生まれないでしょう。

理由が通用するのは、因果律が成り立つ世界。
それはごく短い時間、限定的な場面だけ(ただし、その中ではよく機能する)。
(『目でピーナッツ噛み機』をご存知でしたらありがたい)
いわゆる論理的思考というやつは、もちろん強力な武器だけど、
それしか武器がなかったら、機械に負けるぞ。
それどころか、欧米にすら勝てないぞ。(別に勝ち負けを競っているわけではないと思うけれど)
武器というものは、その弱点まで把握して使うものだ。
(しかし「迂闊」にも、限界を知らず、または限界がないと思って使うのもまた、人間なのだが


フィードバックが入って複雑系になると、(人間レベルの)論理的思考はあっさりと破綻する。
・ぼくが3分前に吐いた二酸化炭素分子は今どこにいるのか?
・10年後あなたの家族はどうなっているか?
・どうして源氏物語は一千年の歳月語り継がれてきたのか?
「偶然」を認めるか認めないかは難しいところだけれども、人間が宇宙のすべてを因果律で説明することは、不可能ではないか。
(しかし「迂闊」にも、それに挑戦するのもまた、人間なのだが)


歴史を紐解いても、人類の文明はいつも「迂闊さ」によって発達してきた。
・不死を求めて
・金を求めて
・便利さを求めて
・安心を求めて
欲深すぎるだろう、短慮にもほどがあるだろう。


それが人間なんだとすると、
むしろ「迂闊さ」こそ、大切に守り育てていくべきではないか。
うっかりその道を歩み始めることの厳しさを「教える」必要はない。
蛮勇が首を引っ込める機会を作ってはいけない。
人間はまたとても臆病なものなのだから。


一方でだからこそ、「考えてわかること」の大切さも同時に学ぶべきだし、
「嫌い」だと思っていることのほとんどは、単なる無知であることも知るべきである。
知りもしないくせに、「嫌い」と思うことは傲慢の始まりである。
(しかし「迂闊」にも・・・)


世の中、助さん角さんばかりじゃ味気ない。
だからうっかり八兵衛がいるんです。

そういう者に、ぼくもなりたい。
子どもたちに負けられない!

(いえ、最近の子どもたちは、むしろしっかりし過ぎなくらいなのですが)



とまた、変なことを書いてしまったものです。

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