選ばれた人は、何をしてもいいの?

 選ばれた人は、何をしてもいいの?



さてさて、中学受験も大詰めで
自ずから緊張感は増して参ります。
息を詰めるように、物音ひとつ立たないように過ごしていらっしゃるご家庭も少なくないことでしょう。
そして急に国政選挙も行われることになりました。こちらは賑やかに。


以前、小学生からこんな質問をされました。
「えっ⁉︎ 右翼と左翼って、仲良しじゃないの?」
えっ⁉︎ どうして?
「えっ⁉︎ 飛ぶためにじゃないの?」

子どもはときどき、こういうことを言います。
単なる無知なのですが、その素朴な疑問が、
聞く人によっては、原点回帰を促すきっかけになることがあります。


「すべての物事を、あらゆる角度から検討し、短期的/長期的に評価して判断を下す」
そんなことは、人にはできない
ということを仮に前提としてみると、
自分が見ている世界は、世界全体の一部だけということになります。
他人が見ている世界についても同様です。
「群盲、象を撫でる」
言っていることに仮に間違いはないとしても、決して全体像を捉えることにはなりません。
「木を見て森を見ず」
果たして、人に森を見ることはできるのでしょうか。

私が子どもたちの話を聞くことに重きを置いているのは、
相手の話の中には、知らないことが含まれるだけでなく、
ときには、ギョッとするようなことまで含まれていることがあるからです。
そして、一瞬ギョッとしたその考えにも、
よくよく考えると合理的なところがある(人間は、合理性から逃れられないのかもしれませんね)。
そうやって、「自分が壊れる感覚」を楽しんでいる節はあります。
(もちろん第一には、縁あったまさに目の前の子の能力を最大限引き伸ばすことにありますが)


勉強においてもそうです。
「割り算ってこういうもの」
「太平洋戦争ってこういうもの」
「原子ってこういうもの」
「勉強ってこういうもの」
わかったと思ったその瞬間から、するすると抜け落ちていくものがあります。
それを回収して、今度こそ完成! と思っても、そう思った瞬間から・・・。

これを一般的におもしろいというかは、微妙だと思いますが、
こういうことを一緒に楽しめる子は、崩れにくいという印象はあります。

いろいろな本を読み、子どもたちにも勧めているのも、
「どんなことでも自分は楽しめる!」
という謎の自信をつけてほしいからです。
その自信が、自分の常識を壊す勇気につながるからです。


社名の「ゆかしネットワークス」には、
「ゆかしい」(見たいな、知りたいな)という気持ちを、「You can see」(ゆーかんしー」にネットワークするという意味(ちとダサい)ではありますが、
「ゆかし」は、
ゆかいに (何事も楽しむ心を忘れずに)
かしこく (考えてわかることは、ギリギリまで考える)
しなやかに (何事にも囚われず、むしろ先入観を捨てて状況に対応する)
の先頭の音を並べたものでもあり、そのような願いが隠されています。


ねぎごとを さのみ聞きけむ 社こそ はてはなげきの もりとなるらめ

=願いごとを、そのように無闇に聞き入れたであろう神社は、しまいには、嘆き(嘆き→嘆木)が際限なく増殖して、森になっただろう。


青山プレップスクールが嘆きの杜となっても、私はかまいません。
ただ、願い事が叶った人たちが、
自分は不完全な存在であることを自覚し、
だからこそ自分とは相容れない人たちを大切にして、
お互いの不完全さを補い合って、なんとかかんとか、生きていってくれたらな。

ゆかいに
かしこく
しなやかに


選ばれた人は、むしろ選ばれなかった人の代表でもあるって
私は思うんですよね。


大空を、自由に、飛ぶために。

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