技術と情緒

東京に星が無いといふ、ほんとの星が見たいといふ。私は驚いて空を見る。教室から見えるのは、太陽、月、金星、木星、土星、そのほか辛うじて一等星のいくつか。

百聞は一見に如かず。
学びの第一歩は「視ること」との考えで、子どもたちと以前から Nikon P900 の超望遠で月面や遠くの景色を、顕微鏡で小さなものを一緒に視て、「目に視えるものがすべてではない」という体験をしてきました。

そしてこの度、新しいお友だち(Seestar S30)がやってきました。
これが、強烈すぎて・・・

部屋に居ながらにして、屋上に置いた望遠鏡をスマホから操作。
おススメ(今の時間、今の場所から見える)天体をぽちっと選んで、しばらく置いておくだけ。

オリオン大星雲、馬頭星雲、かに星雲、アンドロメダ銀河、、、
といった比較的明るい天体から、もっと暗い小さな天体まで、いとも簡単に撮影できてしまいます。出来上がった画像も、AIでノイズを除去してきれいにしてくれて、、、至れり尽くせり。

ありえないんですけど・・・
本来であれば、高価な機材を買い揃え、空の綺麗なところに移動し、いくつもの細かな(本当に精密な)設定を行ったうえで、天候に恵まれれば寒空の下で待ち、途中車が通るなど光が入って来る不運も避けて、やっと撮影できたもの。(フィルムの頃は、さらに家に帰って現像してはじめて、失敗だったかどうかがわかるもの)

こんなお手軽にできてしまっていいのだろうか・・・子どもたちに見せても、「きれいだね」という感想で終わってしまいます。

テクノロジーは事実上不可逆で普遍的

少し前まで、まったく不可能またはごく一部の人だけができたことが、あっという間に、誰でも簡単にできるようになってしまう。テクノロジーの一番の特徴だと思います。
たとえばスポーツなら・・・大谷選手が50-50を達成したからといって、しばらくしたら誰でも(子どもでもお婆ちゃんでも)簡単に50-50を達成できるようになるでしょうか。
たとえば精神的な活動なら・・・釈迦が2500年前に悟りを開いたからといって、その後すべての人類が同じレベルに達することができたでしょうか。
自動車、飛行機、電話、テレビ、スマートフォン、、、いえ、鉛筆1本ですら、私は作ることもできなければ、それ以前の苦労、出来たときの感動、それが世の中を変えたことを実感することができません。
物理的なものに限りません。2次方程式の解法、三平方の定理、文学作品の批評、地動説、進化論、プレートテクトニクス、量子力学、民主主義、私的財産の所有・・・当たり前と思っていることの、何を本当にわかっているといえるのでしょうか。

あらゆるものが「普通」

さまざまなものが「当たり前のもの」として提供され、特に現代では、お金を出せば簡単に「楽しいもの」「快適なもの」「楽できるもの」が手に入る状況において、むしろ【感動すること】は難しくなってしまっているのではないでしょうか。

「普通においしい」「普通」「別に」
子どもたちはよく言います。小学生くらいはまだ、何かに興奮して話してくれることもありますが、高校生くらいになるとみんな「普通」。

感動の多い人生

感動するのも簡単じゃない。ある程度の知識がなければ、感動できない。そして大切なのが、想像力。目の前にないものごとを想像すること。そもそも、見えていないところに広大な世界が広がっていることを想像すること。

お金があるとか、学歴がどうとか、大事じゃないとは言わないけれど、子どもたちには想像力豊かな大人たちになってほしいと、そんなことばかり考えています。


画像
アンドロメダ銀河
(天の川銀河の外:250万光年)
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馬頭星雲(オリオン座)
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バラ星雲(派手)
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オリオン大星雲
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フクロウ星雲
(見てるよ)
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かに星雲
(茹で)


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