「教育的指導」は、教育や指導なのか(白井球審と佐々木投手)
1週間ほど前の話になりますが。
白井球審が、佐々木朗希投手に詰め寄った件。
白井球審 ロッテ・朗希の不服な態度の積み重ねで限界に 注目浴びる高卒3年目へ「教育的指導」
球界の反応は、おおむね白井球審に同情的、佐々木投手には我慢しなさい、というもののようでした。
そのこと自体は、まあ球界の人がいいのならいいのでしょうと思っています。(今の子どもたちの価値観とは合わないだろうとは思いますが)
ただその中で、「教育的指導」という言葉が出ていたので、ちょっとおもしろいと思いました。
ああいうのが、「教育的」だったり「指導」だったりするのですかね?
もしくは「教育的指導」というものなのか。
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「教育」という言葉を、指導的立場にある人間が使うことには、相当違和感があります。
たとえ厳しいことを言うことがあったとしても、指導者の感情をぶつけることではない(指導者にも感情があるよ、とわからせるためなら他の方法もある)。
10年、20年経って
相手から「勉強になりました。あの時、ありがとうございました」と言われてはじめて教育だった、ということになる。つまりずいぶん時間が経った事後的にしか分からないものではないかと思うのですが、どうなんですかね。