「考える」の真ん中で

「これからの時代は考える力が必要です」


という言葉は、いったいいつから言われていることなのでしょうか。
もしかしたら、太古の昔から言われ続けている言葉なのかもしれませんね。

人が生きている限り、常に新しい局面に遭遇し、新しい情報が入ってきて、「今この場で」何かの判断をしなければならないことがあります。そんなときに、「考える力があるといいよね」と感じ続けてきたのでしょう。
また近年では、受験産業の思惑もあるでしょうね…(本題からズレるので掘り下げません)

しかし私には疑問があります。
「考える力」と特に言い始めてから(受験戦争後)、人々の考える力は向上したのでしょうか? さまざまな教材や教育方法は、人々の考える力を向上させてきたのでしょうか?
ノーベル賞受賞者などの知の巨人とでもいう人々が、いまだに「好奇心」や「幼少期の素朴な体験」、「自分でやって自分で失敗すること」など、素朴な誰にでもできることを言い続けているのは、なぜなのでしょうか?

私は、今の仕事を始めて18年余り、
「考える」の現場に居続けています。

「考える」とは、いかなる頭(や心)のはたらきなのか。
「考えてない」とは、どのような状態なのか。
「考えない状態」から、「考えられるようになる」には、どのような推移を辿るのか。
その変化を促進させるような、「手法」はあるのか。
・・・

あるテーマについて(たとえば、分数の割り算)
いろいろな説明がありえます。
ある子に対しては、Aという説明の仕方をして、様子を見ながらアレンジする。
同じことを別の子に対しては、Bという説明の仕方にする。そして反応を観察する。

「わかりましたか?」 なんてこちらから聞くと、決まって
「わかりました!」と、判で押したように返ってきます。
その子は、本当に「わかって」いるのでしょうか?
◻︎ 「わかりました!」と答える儀式だと思っている
◻︎ 「わかりました!」と言わないと、怒られたり、面倒なことになると思っている
◻︎ 「あとで覚えればいい」と思っていることを、「わかった」だと思っている
そんなケースが多々あります。
私はいつも接しているので、一人一人がどのくらいの理解力を持っていて(だいたいですが)、どういう反応をしがちかも把握しているので、
どんな説明を、何回くらいすると、徐々に「わかって」いくのか、見当はつきます。
しかし、それがまったく見当はずれになることも少なくないです。
そうやって失敗を重ねることで、私はその子のデータをアップデートし、次の手を考えます。

どうしたら、「考える」ようになるのか。

私が大切にしているのは、
「失敗したときの対処」です。

失敗を何も無かったような顔をして、すぐに次に進もうとする子は少なくありません。なかなか学習が積み上がりません。
「間違うことは悪いこと」と思っているのでしょうね。
「間違いこそが、宝島!」 そこにたくさんの宝が眠っているよ。 掘り出し放題!
だけど、自分の間違いと向き合うことは、確かに少し負担があるかもしれません。
だからこそ、私がいるのだと思っています。
冷静に、客観的に、間違いを眺めて、原因を推測し、分類してみよう。
「勝ちに不思議の勝ちあれど、負けに不思議の負けは無し」(野村克也)
必ず原因があって、学校でやっているレベルであれば、ほとんどは何か対処できるものです。
何かの対処をした結果、うまくいっても、また失敗しても、次につながります。
そうやって、自分の勉強を俯瞰して見られるようになる。(メタ認知)
これも一つの、「考える」です。

メタ認知ができてくると、だんだんと、
「自分の失敗しやすいパターン」や、「理解しやすいパターン」というように、
抽象化して考えることもできてきます。
あらゆるものに「パターン」が存在する。 というより、「パターン」を使わないと、私たちの脳では理解ができないのではないかと思います(科学的なエビデンスは探していませんが、そんなに外していないと思います)。

「本当にそうだ!」と、びっくり(または納得、または渋々納得)する経験を、私は大切にしています。
教えられたことを覚えて繰り出すのではない。それはむしろ、とてもレベルの高い話。プロレベルの話。
アマチュア、まずは「本当だ!」と自分で確かめること。納得すること。
僕たちは、現実を知りたいんだ!」
(もしかしたら「本当じゃない!」ってわかってしまうかもしれません)

前提となるのは、たしかに「好奇心」や「柔軟な心」、「学ぶことへの優先度の高さ」です。これらは、おそらく幼少期に基礎が出来上がるので、育った環境に依ることが多いとは思います。しかし、人間は変わることができる。「今ここがスタート地点」だとしてみましょう。

どんな教材を使うか、どんな「メソッド」を用いるか、
そんなのは、はっきり言って大した問題ではありません。
目の前の子(もしくは、自分)の「心」が動いているかどうか。
それを観る目が必要です(少なくとも私は、考える前に、観察したいです)。
そして、仮説を立て、失敗を繰り返して、少しずつ調整していく。
(仮説が立てられなかったら、「とにかく違うことをやってみる」でも十分です!)


「実験と観察」
これが私が用いている「手法?」です。当たり前すぎておもしろ味はないですが、でも意外にその「当たり前」が、そうではなかったりもするものです。

いまだに、「偉い人の言うことをありがたく聞いて覚えればいい」と、中世のような発想も根強く残っていて、それもまた、「考える」を考える貴重な材料です。


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