能動的な学びが生み出す、決定的な差
能動的な学びが生み出す、決定的な差
「この冬休み、何をどのくらい勉強して、何をゴールとしますか」
『冬のチキチキ勉強し放題祭り』の参加者一人ひとりに最初に問いかけるのは、こんな質問です。小学1年生でも社会人でも、ここから一緒に考えていきます。
私が子どもたち接する際に大切にしているのは、
「自分で考えて、自分で実行して、その結果をまずは自分が受け取ること。そして誰かにお裾分けすること」
「先生の言うとおりがんばったら、90点取れた!」なんて【成功体験】…
悲し過ぎますよね。
その子は将来、
誰かに言われるがままに実行することを、自ら求めるようになってしまうのではないでしょうか(より深刻になると、誰かを奉り、より忠実に励むことで幸せを感じる…)。
「無事、名門校に入れておめでとう!」なんて【成功体験】…
悲し過ぎますよね。
その子は将来、
ブランドで身を固めることに必死になり、素晴らしい外見と、実際の自分の中身との差に苦しむことになりはしないでしょうか。
「俺は、誰々と友達だ」
「自分がうまくいかないのは、⚪︎⚪︎のせいだ!」
「これは自分のものだから、絶対に人に渡さない」
悲し過ぎますよね。
これらはすべて、自分では何かを生み出す自信がないことの裏返しです。
苦労して何かを作り出すよりも、自由にやって失敗するよりも、無理はしないで既存のものを守ることが大切だと「教育」された結果です。その子にはなんの罪もないのは当然ですが、それを「教育」してきた側も決して悪気があったり、無知だったわけではありません。短期的な成功が長期的にはマイナスになることは人間社会ではよくあることで、時代の変化が激しくなれば、その入れ替わりも起こりやすいということだと思います。
自信・・・
もし仮に一人になったとしても、なんとか考えて、行動して、道を切り拓き、何かを生み出せるという「自信」。かっこ悪いけれど、それが「自信」だと私は思います。
そして、そのための「能動的な学び」です。
「能動的な学び」は、楽しいです!
対象(何を勉強するか)は、なんでもOK! 対象選びが重要なのではありません。好きなことを深掘りしてもいいですし、なんの興味もないことでも、むしろ嫌いなことに挑戦するということでも大丈夫です。絶対にサポートします。
何に取り組むとしても、取り組んでいる「自分」に注目しましょう。
自分が今、どこにいるのか、何でつまづいているのか、どんなスキルを身につけたのか、この経験トータルで何か得られたものはあるか、この経験と何をかけ合わせると「おもしろい」ことになりそうか・・・対象に取り組んでいる自分を、俯瞰して捉えてみましょう。そこに、新たな気づきや学びがたくさんあるはずです。
算数をやったら、論理的思考力が身につく?
読書をしたら、読解力が身につく?
アート教室に通ったら、クリエイティブな人間になる?
理科教室に通ったら、科学者になる?
人間はそんな単純なものではないと、私は思います。
脳の中では、さまざまな抽象化や、自由連想、論理的思考、アブダクション・・・が働いて、インプットとはまったく異なるアウトプットができることができます。
私は、それこそが人間が大切にしたい能力だと思います。
覚えたことただ繰り出す、それをひたすら繰り返す、ということでは、人間の能力は十分に伸ばすことはできません。学校や塾では、そんな練習ばかりしていませんか? それって、楽しいですか? 将来何の役に立つんですか?
青山プレップスクールが「全教科」を対象として、さらに教科の境界を超えて融合的なお話をしているのは、創造的跳躍を生み出すフィールドを広くするためです。より広いフィールドで頭と心のトレイルランニング、跳躍やダッシュ、円盤投げ、ダンス、借り物競走・・・。さまざまなトレーニングを通じて、「自分は何か新しいものを生み出すことができる」、「世の中を良くするための何かを考え出すことができる」という自信の芽が少しずつ少しずつ育っていくのを見守っています。
さまざまな問いかけをし、対話をし、意地悪な質問もして、新しい可能性について一緒に検討もして、ときに褒めて、ときに厳しいことも言って・・・はっきり言って、ものすごく手間がかかります。だけど、それも楽しいことです。人間がする意味があることだと思います。
受験勉強やテスト勉強だけが、勉強ではないのですよ、
と私は思っています。
