言語化で解像度が上がる?わけなかろ

言語化で解像度が上がる?わけなかろ

#さみしい夜にはペンを持て 



小学生の頃

何か書きたい気持ちはあるんだけど、

「なんて言っていいかわからん!」

と思うことがよくあった


中学高校と進むうちに

そういうことは徐々に減っていったのだけど

なぜなんだろうと思っていた


a. 書きたいことを書けるだけの語彙や表現を身につけた

b. 書きたい何かが、言葉に飲み込まれてしまった


私はどちらかというと、b を疑っている

借りてきた言葉、他人のモノマネでわかったような気になっただけ



難しいのは、

何かを理解するためには言語を用いるのが一般的で、絵画や音楽や踊りや料理などよりもよほど正確に伝えることはできる。

もう一つは、所詮私たちは「わかったような気になる」ことしかできないということ。



結果的に、

言語をさまざま用いて、

図や記号、数字などの助けを借りて、

なんとかお互いの「共通認識」があるかのように思い込むことでこの社会は成り立っている


だから、言語表現はもちろん大事なんだけど…


一方で、言語にした瞬間に、もともと生々しくあった何かから、たくさんの情報が滑り落ちてしまう

解像度は、確実に落ちてしまっているはず


言語にする前の何か、言葉にならない何かは

いったい何処へ行ったんだろう…


無意識レベルでは残ってるんじゃないか

いつかそれを取り出すことはできるのだろうか



子どもをたちを見てると、そんな何かが

にゅるっと出てきそうで

それはそれでちょっと怖い


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