2017年9月7日木曜日

”教育”は免罪符。(または愛があれば許される論)

学びを遊びに、遊びを学びに。
20年後の未来のために、新・碧山プレップスクールです。


「教育目的でやった」

といえば、一般レベルでいえばたいてい許される。

そう、何でも学びであり、教育なのです。

◆ バカなことをすれば往復ビンタをされる
◆ 自分が体罰で育った人は暴力を肯定しやすい
◆ やる気も才能も無いガキどもをリードして何かをさせるって本当に大変
◆ 目的が正しい、愛があるといえば、すべてが許されると思っている人が結構いる
◆ 法律違反だからダメ、っていう人が結構いる
◆ 専門家じゃないからいいんだ、という人も結構いる
◆ 「俺ファースト」はある意味うらやましいなあ


ぼくたちは、何を学び、どこへ向かうのだろう。


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そう、すべては教育のため。
● ふざけたやつは、殴れば済むのか?
● 殴られないと人は学ばないのか?
● 法律に書いてあるからダメなのか?

そんな単純ではないと思います。
そして、ぼく自信にはほとんど、「自分がこうしたい」というものを
持たないようにしています。
あくまでも、その子の未来にとって、最適なものを提供できるか、
それを考え始めたら精一杯です。


ある言動が、相手に対してどのような影響を、短期的・中長期的に与えるのか。
自分の限界まで、リアルタイムで考えて子どもたちと接するようにしています。
10人いれば、10人の受け取り方がある。
1人の子でも、その日の気分やちょっとしたことで反応がまったく異なる場合がある。
(だから当然、大教室でたくさんの子どもたちにいっぺんに、とかは無理)

あらゆる選択肢の中で、自分が今行おうとしている言動が、
長期的に最適なのか?
それはもう、ぎりぎりの判断です。
殴って済むならば、そんな楽なことはない。
でもそれが、あらゆる選択肢の中で最適と言えるのか?
単に自分が「ムカついて」いるだけではないだろうか?

「ダメなことはダメ」と機械的に判断すれば良いのか?
それが本当に最適解と言えるのか?
単なる責任逃れと言えないだろうか?


例えば手段として暴力を使うことは、
自分の生い立ちや価値観から考えて、ないと思うけれど、
可能性としては、ある。
だけど、それはもう、最後の最後の最後の手段。

そこまでしなくても良い方法が、その手前で必ずあるはずだと
ぼくは思います。


「俺ファースト」に考えればもっと楽なんだけど、
じゃあ、自分の子どもをそんな人に預けたいかと言えば、
まあ、それも一つの経験であり、学びのチャンスかなあ・・・

零年は準備の年(新・超・挑・親・深・汎・G)

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