懐疑と予感の由良の門を。

由良の門を 渡る舟人 かぢをたえ  ゆくへも知らぬ 恋の道かな


恋の話ではありません。

「自ら考えて行動できる人間になろう」、「考える力をつけよう」、「思考力が大事です」・・・

耳触りのいいこの言葉は、今や巷にあふれています。

どの学校、どの塾の理念をのぞいても、そんなことが書いてあるでしょう。

どの会社の人材募集をみても、そんなことが書いてあるでしょう。


かくいうぼくも、いつも子どもたちに、

「覚えて出来てもダメなんだよ」、「知らなくたって考えればできる」、

「知識そのものは、その場その場の使い捨てだけど、

 考え方はいつでもどこでも、使い回しが効く」、

「考えることが、人間を人間らしくして、他の生物や機械とは異なる存在にしている。

 考えることが、君を君らしくする」

ということを、静かに語りかけています。


===懐疑編===

子どもたちには、そうは言っていますが、

一方では、「本当にそうなの?」という確認作業もせずにはいられません。

「じゃあ、おとなは本当に考えてるの?」、「ぼくは本当に考えてるの?」


日常のさまざまな場面で、

人は、単に「ルールに従っているだけ」なのではないでしょうか。

決められた時間に会社に行き、決められた範囲内の仕事をして、

いつものルートで家に帰って、家に帰ったらほぼ決まった行動をして。

給料が入ったら、ちょっといいものを食べて、

有給が貯まったら、海外旅行に行って、

車を買い、家を買い、結婚して、子どもを育てて、、、、

大きな差異は気にしないが、細かな差異が非常に気になる。

何か嫌なことがあれば愚痴を言い、

言えば、それなりにすっきりして、

新聞やテレビ、インターネットで知った情報について話し、

誰かから聞いたことを話し、

いいことがあれば、Facebookに投稿する。

株価が上がれば喜んで、

「ただちに健康に害はない」は、「最悪の毒」か、「もう済んだこと」

賢そうに見せたければ、ちょっと批判的なものの言い方をする。


幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である


もっと詳しく一場面、一場面を観察してみても、

ほとんどの人は、ぼくも含めて、

その場その場で、既に知っていることを、なんらか【繰り出している】にすぎない。

独創的というアイディアも、

何らかの組み合わせだったり、アレンジだったり、流用に過ぎない。

そもそも、思考をつかさどる言語を、

ぼくたちは「考え」たのではなく、「まね」たのですから。


なーんにも考えなくても、

その場その場をうまくあわせていけば、それなりに乗り切ることは出来る。

それで十分といわれれば、たしかに十分。

幸せかと言われれば、(ある程度欲望を制御できれば)、十分幸せでしょう。

いーじゃん!それで。

「考え」ないでも、その場その場を取り繕うだけの知識と技能を、

グーグル先生に聞いて、LINEで友達と会話して、Twitterで愚痴をこぼしてれば。

なんてすばらしい世の中なんだ!




===予感編===

一方で、思うのです。

★ その場しのぎをするためにも、思考力が活きてくる

★ 総合的な思考力の必要性

★ 外的環境の変化(5%⇒50%)

★ 人間の性(さが)として

★ ぼくのごくごく個人的な興味として



==その場しのぎをするためにも、思考力が活きてくる==

   学歴というものが意味を持ちうる、1つの、そして小さくない理由ですが、

   単にルールに従っていればいいとしても、そのルールを覚えて、

   使いこなせなければなりません。

   この書類の書き方はこうで、いつまでに、誰に出さなければならない。

   1回で正確に覚えられるか、何度教わってもミスをしまくるか。

   2回3回・・・覚えるのに時間がかかれば、

   自分の時間だけでなく、組織の時間を奪うことになります。

   それはそのままコストに反映されますので、

   「ものわかりのいい奴」は、どうしても社会(会社)では評価されます。

   資本主義社会においては、それは金銭という形で報酬を与えられます。

   ものごとを理解し、使えるようになるには、一定の思考技能が必要なのかもしれない。

   ある種の思考技術をマスターすれば、今ある問題がすべて解決して、バラ色の人生!

   ビジネス書が手を変え品を変え、売れ続けるのも、

   こうした技能に対する需要が大きいからだと思います。


   ですので、青山プレップスクールでも、最低限のことは、教えるようにしています。
   (*あまりにも、無防備な子(笑)が多すぎるのも事実ですので)   


==総合的な思考力==

   個々別々の処理については、ほとんど自動化されているとはいえ、

   人はそれらを数を多く組み合わせて、総合的に判断しなければなりません。

   ここまで来ると、単純にマニュアル通りに対処できることではありません。

   たくさんのものごとは、それぞれ属性(重要度、緊急性、危険度、楽しさ・・・)を

   持っており、これらを比較検討しながら、

   現状の資源(もの、お金、人間関係、時間・・・)と照らし合わせて、

   その場に最もふさわしい、(もしくは妥当な、もしくは自分らしい、もしくは文句の来ない・・・)

   選択をしなければなりません。

   その選択をする過程も、1つの思考です。


   この面を強調するなら、ぼくたちは、今までの教育とは違ったプログラムを

   実践すべきかもしれません。

   「選択する」というトレーニングです。

   バーバード大学マイケル・サンデル教授の『正義について』という授業が有名になったのも、

   あれは1つの、「選択する授業」だったからではないでしょうか。

   *だからうちでも、「対話による授業」という形態を取っています。集団の授業は、学校や予備校と一緒だからしない。


==外的環境の変化(5%⇒50%)==

   ルールが安定している時代には、一度覚えたルールは長く維持されますし、

   ルール変更や新しいルールができる頻度も限られます。

   一旦ルールを覚えてしまえば、その後は「考える」ことなく、

   過ごすことはできるかもしれません。

   いつの時代でも、変化のない時代などはなく、

   常にある程度の定型と、ある程度の非定型が混在していたでしょう。


   しかし、それにしても、

   巨大化しすぎてしまった組織は、外部との接点が多すぎて、価値観が異なりすぎて、

   制御不能に早晩なってしまうように、ぼくには思えます。


   そのため、『現場で判断』ということが、これまで以上に求められます。

   悪い言い方をすれば、

   これまでは、5%の人が頭を使って、95%の人が体を使う、だったのが、

   これからは、50%の人が頭を使いながら体を使って、

        残り50%の人が、体を使いながら頭を使う

   そういう時代になっていくと思われます。


   覚えたことをやればいい、言われたことだけやっていればいい、

   そういう仕事は、機械に全部取られてしまいますから。

   *話は違いますが、公共的な仕事は本来的には法律に従うだけですから、
   *多くを機械化すべきじゃないの?と、
   *そこに、「判断(手心)」を加える人は、少なきゃ少ないほどよい、とぼくは思います。
   *公務員だって所詮は人間なので。


   *今うちでやっている、「組分け(日本史体感オプション)」は、
   *実はそういうことを感覚として覚えることを意図しています。


==人間の性(さが)として==

   そもそも、人間が「考えない」ということを本当に希求しているのか?

   いや、何か「考えたい」んじゃないの?と。

   たとえ、学校や会社では、周りから期待されていることを「考えない」としても、

   つい何か考えてしまう、いつも何か考えている、という状態が人間にとって自然。


   それを、目先の利益と関係づけをつけようとするから、

   逆におかしなことになる。ほっといたって、人間考えるはず。

   考えなくさせているのは、学校や塾の方なんじゃないの?

   漢字を覚えろ! 単語を覚えろ! 解き方を覚えろ! ・・・


   自分で考えるという本能を呼び覚ましたうえで、

   考えることの上達を心から欲した時に、考えることが身に付くのではないかと思うのです。


   だから、先に教えちゃいけない。

   悩んで失敗してうまくいかなくてイライラして、その先に、感動が生まれるのだと思います。


” W A T E R ! ” (ヘレン・ケラー)


   もっと知りたい、わかりたい、これは何だろう?どうして?

   ぼくはだれ?どこへ行くの?

   学校名で私を判断するな!


   そこが出発点でもあり、実はいつでも出発点にぼくたちはいるのではないでしょうか。



==ぼくのごくごく個人的な興味として==

   実は、ぼくは何もわかっていない。

   「わかる」ということがどういうことなのか、

   「かしこい」とはどのようなことなのか、

   本当にはちっともわかっていないのです。


   素粒子の集合体である原子の集合体である分子の集合体である細胞の集合体である

   ぼくが、なぜ、このようなことを考えている(と思われる)のか。


   ただ、たくさんの生徒さんを見ていて、間近で接していて、

   最近わかりかけているような気も、しなくもありません。

   □ 積み木を積み上げるように、ぼくらの頭の中はできてはいない

   □ もっと生物的な現象(何か)が起こっている


   ★ 研究テーマとして

     ・ 「わかる」かどうかは、対象物がその人の内的世界との境界上にあるかどうか

     ・ 「かしこい」とは、微細なしかし膨大な単純処理のスピードと、信頼性で決まる

     ・ 「できる」ための、ある一定の(生物反応的な)プロセスがある

     ・ スケール差について


     ・ 移動半径について

     などなど・・・(日々増殖中(笑))


   ★ 開発すべきツールとして

     ・ 集中状態を外部的に喚起するツール

     ・ 世界観を背景的に刷り込むためのノート

     ・ 強制的に「記憶」させてしまうツール

     ・ スマど(スマートドア=どこでもドア)

     などなど・・・(こちらも日々増殖中(笑))


   ★ アプリケーション(サービス)として

     ・ 2030年を子どもたちがデザインする

     ・ 古典を自由に解釈する読書会

     ・ 海外の日本人とのコラボ

     などなど・・・(こちらもこちらも日々増殖中(笑))



     もう何言ってるかわからないですよね。

     ということは、ほんとうに趣味の世界で。。。

     困ったものだ。



ただ、ぼく自身は、「考える」ということを、おそらくは止めない。

それがなんだか、わかってないけれども、

実は、なーんにも考えてないのかもしれないけれど、

活動としては止めない。

その一部に、「自らを疑う」ということが含まれていて、

(悪い意味での)宗教や権威に、自ら堕しないために。




由良の門を 渡る舟人 かぢをたえ  ゆくへも知らぬ 恋の道かな



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