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理想

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  人の親となることを知ったとき、そしてそれが女の子であるとわかったとき、とても不安でした。緊張しました。「過ち」を再現してはならない。だけどそんなことできるのだろうか。 わたしが育ったのは、言い争いの絶えない、一年中真冬のように底冷えのする家でした。それはわたしにとっては、辛い苦しい、生まれてきたことを後悔するばかりの日々でした。 そんな思いを我が子もしてしまうのでしょうか。それはあまりにも… でも、どうやったら防ぐことができるのでしょうか。子育ての経験もありません。 結果としては、、、 派手なイベントや豪華なプレゼントなんかはなかったのですが、 けれど、一度も親子の言い争いはしていませんし、親として彼女を悲しませてしまったのは一度だけ(その一度については、今でも後悔しています)。もちろん、友だち関係などでの悲しみは、人並みに経験しているとして。 物心ついてからずっと、二十歳をすぎた今でも、毎週かなりの時間(数時間)、穏やかに、どうでもいい話をしています。ときには進路や日常で困っていることについての少しマジメな話もします。 いつもいつも、 「これは奇跡だ」と思っています。 娘にも妻にも感謝しています。 同時に、努力が報われたとも少しだけ思っています。 一般に子どもたちが、 「昨日、お母さんと喧嘩した」「お父さんとは話すことない」 なんて言ったりしているイメージがあります。マンガなどでもよく出てくる表現です。 家族のかたちは千差万別。100家族あったら100パターンあるので、何がいいとか悪いとか、そんなことは言えません。ただそれが、その家族の考える「理想」に近ければ、と思います。 そしておそらくは、、、勉強をするの/しないので言い争うという「理想」は、あまり掲げられていないだろうと思います… わたしにとっての「理想」は、「ちゃんと話をすること」でした。 感情や自己主張をぶつけ合うわけでもない、ただ甘やかすわけでもない、何を話したらいいかわからなくもならない・・・ そのために、わたしは「同じ土俵」ではない、といつも思っていました。 対等に話しますが、こちらには責任があるし、少し先も見える。 少し筋道を立てても考えられるし、少し勘も働く。 それを相手に伝わるように話すことも少し上手にできる。 シビアな話なんて滅多にあるものではないですが、いつかそうなったときにち...

子どもホイホイ?

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  #さみしい夜にはペンを持て   小中学生に読み聞かせをしていると(ときどき高校生も) 耳がぴくぴくとこっちを向いて 目がじーっと固まって 体がじりじりこちらに傾いてくる (しっぽがあったら、ぱたぱたしてるでしよう) 私から奪いとって読み始める子もいて 孫よ〜かわいい 本書の内容は 思いを考えて言葉にしよう そのために書くといいよ 書きはじめることによってだんだん形になっていくよ 「日記を書こう!」と私は言わない だけど 何人かは始めてるみたい 強引に促せばその時は結果が出て 特に子ども相手だとそうすることが当たり前のように為されていますが(そのやり方で育った親は、特に結果が出なかった人ほど、再生産したがる傾向がありますね)、それだと他人からの圧力でしか動けなくなる。そういう練習は、学校などで散々やらされてるだろうから せめてここでは、そんなことはやらない それよりも 自分の心と対話する時間をもってね (それがなぜか、未来の大ピンチを切り抜ける魔法にもなるのだからおもしろいね) 空気をそっと纏わせる 本はそういう道具だと思います

勉強の意味

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「これって何の意味があるんですかー?」 子どもがやりたくないときに、たいてい言うやつです ニコ 「それを訊いてくるシンジ君(仮名)の意図は、『こんなことやりたくねーよ』だよね。だから、真面目に意味を答えても仕方がないと思うんだけど、まあでも、最近いい説明の仕方を開発したんだよね」 「何ですか!」 「意味ないと思ってる人に通用するかはまだ実験中で、あくまでベータ版としてでもいい?」 「いいですよ」 そんなたいそうなことでもないんだけど、 たくさんあり過ぎるから、3つに分類してみたのね。タイムスケールによって。 (たくさんあったら分類するのは、いつもいつもやってることでしょ) それで、3つのカテゴリーに分類しました。 A:現在の生活を守る B:未来の生活を守る C:人生を攻めるため A: 現在の生活を守るため 現在の生活が破綻、または破綻しかけているときには、緊急で対応しなければなりません。 緊急度は最大で、(程度にもよりますが)打てる手はすべて打ちたい。 たとえば、勉強のことで学校生活や家庭内でトラブルがある、留年のピンチである、受験を控えている、 そして、「学校の授業が全然わからない」も、ここに分類しています。 学校の授業がわからないと、その時間及び、その後の授業の時間がほとんど無駄になってしまいます。忙しいみなさんが、ほぼ強制的に参加させられている学校の授業時間を無為に過ごしてしまう(そしてあとで埋め合わせをしなければならない)なんて、これ以上の無駄はなかなかないよね。 でも、それだけじゃない。つまらない話(わからない話はつまらない)を聞き続ける苦痛、だんだん人の話を聞かなくなるというマイナスの習慣づけ、勉強や学校が嫌いになるということなど、弊害は大きいです。 だから、どの科目でもいいから、「わからないー、この時間無駄だなー」と思う授業があったら、それについてなんでも持ってきて質問してね、としているのは、そのためです。 受験も、ちょっと事情は違うのですが、緊急度という観点でここに分類しています。 本質的な勉強の楽しみ、なんて悠長なことは言っていられない。勝負なんだから勝たなければならない。その前提で、何をどこまで考えるか? 勉強そのもののことだけでなく、どうやって体調やメンタルを維持するのか、本番で最高の結果を生み出すにはどうしたらいいのか。そのために、打てる手は...

AIで一緒に学ぶ(遊ぶ)

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目まぐるしい! 毎週のように新しいニュースや実装が発表されるAI界隈は恐ろしいですね! 恐ろしさに耐えかねたぼくは さとるに助けを求めた。 さとるは小学5年生 勉強はかなりできないほうだけど、元気がよくて、しかも優しい 今どき珍しい若者だ。 「助けて、師匠!」 「え? 何? 何?」 「AI使えばいろいろできそうなんだけど、具体的にどうやって活用したらいいか、考えてたら、、、なんか、もう、疲れちゃって」 「え? 何? どうしたんですか?」 「疲れちゃって、今日あんまり準備できてないから、タブレットで遊ぶのでもいい?」 「え? え? う、うえーい い?」 「えっと、まずは、、、この『録音』ボタンを押すね」 「え? あ、はい」 「さっそくだけど、この前は、平行四辺形の面積を求めたよね! どんな話だったっけ?」 「縦 かける 横!」 「そうじゃなくてー、、、話だよ、どんな話だったか?」 「覚えてない!」 (この間に、面積の最初から、三角形の面積まで説明) 「ということで、三角形の面積まで、わかるようになっちゃったねー」 「なったねー」 「ほんとか? 大丈夫ー?」 「そして、、、『停止』ボタンっと」 「これ、さっきから、何ですか?」 「だから、これで今日は遊ぼうと思って」 「ん?」 「まずは、さっきの話をまとめてもらうよ、チャッピー、よろ」 「わ、できた」 「声に出して読んでみて」 (ほにゃらひにょら) 「さっきしたのは、こんな話だったよね。 1.面積って何? 2.それをどうやって数える? 3.正方形や長方形の面積 4.平行四辺形の面積 5.三角形の面積 さっきの話が、短くまとめられてるよね。 理解できてる?」 「う、うん、はい」 「このテキストから、動画を作ろうか?」 「えっ! やりたい」 (あれこれ、それどれ) 「お、できたね」 「えー、何?、なんか変!」 「どこが変?」 「黒板の字とか読めないしー、この子は変な方向いてるしー、ここに水槽あるのも変だしー、えー、、、」 「そうだね、もっとよく見てみよう! 変な場所を20個見つけよう!」 「まあ、まだ動画は難しいかったかなあ。 じゃあ今度は、ラジオ番組、作ってみよう!」 「えっ、そんなのもできるの?」 「テキストから、podcast っと」 「できたかな、『再生』っと」 (ラジオ流れる) 「皆さんこんにちは、学びの小部屋へよ...

完全に全自動で動画にしてもらいました

  なんとなくそれらしい

数学や英語を教えたいわけじゃない(考えるって楽しいこと)

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「塾をやってます」と言うとよく、「専門は何ですか?」と聞かれます。 しかしうちには、所謂「専門性」というものがありません。 どの科目でも(学校の教科以外でも)、持ってきてくれれば教える(?)し、 対象も幼児から大人までさまざまです。 私は「何か特別な知識を暗記させている」わけでもなく、子どもが「好きなことを好きなようにやらせる」わけでもなく、「やりたくないことをエサで釣るなどして無理やりやらせている」わけでもありません。 なるべく、静かな伴奏者であろうとしています。 そうした環境で、「考えることって楽しい!」と思ってもらえたら最高だという価値観のもと、「考えるモード」に入ることやその時の「楽しい気持ち」を思い出すお手伝いをしています。 そもそも「専門性」とは、誰のため、何のためのものなのでしょうか。 数学と国語は、そんな違うものなのでしょうか。 英語を教えることと理科を教えることは、そんなに違うものなのでしょうか。 私はそうは考えません。 学ぶことは人生を豊かにするものであり、 目の前で困っている人がいれば少なくとも手を差し伸べることはできるはずです。そして、よほど高度なことや特殊なことでない限りは、何かできるはず。 そして、「知ってることをただ喋る人」からよりも、「困っていることを一緒に考えてくれる人」からのほうが、学びは多いのではないでしょうか。 勉強が「テストのためにするもの」と思われて、テストの点数でだけ評価されるのと、 「自分で考える」ことを評価されるのと、 どちらが勉強が好きになるでしょうか、 自分で考えられるようになるでしょうか、 社会の良き一員となって周囲から大事にされるでしょうか。 AI などがますます発達する未来において、 自分で考えることが楽しい、 そのために自分から、調べたり勉強したり練習したりできる そんな若者たちの活躍の場はたくさんあると思います。 だからこそ、教科を超えて “ 考えることそのもの ” を楽しめる場をつくりたい。 それが私の役割だと思っています。 お子さんが(そして大人も忘れているかもしれない)「考える楽しさ」を、一緒に見つけてみませんか。