選別から育成へ〈少子時代の教育〉 —— 今の入試は人権侵害!?
選別から育成へ〈少子時代の教育〉 —— 今の入試は人権侵害!?
目次
1. はじめに:ガリレオ衛星が教えてくれること
2. 第一部:失われた「学び」
├ 子どもの本来の姿
├ 「選別」の始まり
└ 入試という制度
3. 第二部:なぜ「選別」が機能したのか
├ 高度成長期のシステム
└ 「リーダーと兵隊」モデル
4. 第三部:これからの時代
├ 人口減少と多様化
├ 「総力戦」の時代
└ 個人に求められること
5. 結び:大人が変わることから
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はじめに:ガリレオ衛星が教えてくれること
現代では「常識」とされることが、過去には「非常識」だった例はいくらでもあります。
写真は、地動説を多くの人に実感させたガリレオ衛星です。
同じように、今の「常識」も未来には「ありえない!」と叫ばれるかもしれません。
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第一部:失われた 学び
子どもの本来の姿
3〜5歳くらいの子を見ていると、
知らないことを知ったり、目の前の物事について考えたりすることは、
本来もっと自由で、もっと楽しい行為だったことを思い出します。
子どもたちは本当に学ぶことが大好きです。
学びと遊びはほぼ一体化しています。
「わかった!」「できた!」
あの瞬間を、私たちも毎日、何度も何度も経験していたのではないでしょうか。
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「選別」の始まり
しかし学校に通いはじめて何年かすると、
勉強は「点数」をめぐる不機嫌なものへと変わっていきます。
良い点なら安心、悪い点なら不安。
それはその点数によって、大人たちが、
そして大人を真似る子どもたちが「評価」し、「選別」しはじめるからです。
何より教育現場である学校自身が、率先して「選別」をしています。
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入試という制度
「選別」がもっとも露骨に現れるのが、入試です。
考えてみると入試とは、かなり残酷な制度ではないでしょうか。
「この学校で勉強したい!」と思う子どもに対して、
「お前はバカだからダメだ!」
「お前には、うちのような素晴らしい学校で学ぶ資格がない(格に合わ不)!」
と言っているようなものです。
怖くありませんか?
子どもの気持ちを踏みにじり、学ぶ権利を奪い、
その根拠に「点数で測った格」を持ち出す。
いったい何時代の話でしょう。
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もちろん「施設が限られている」などの事情は理解できます。
では、「選別はある程度やむを得ない」と仮定して考えてみましょう。
教育に誇りがあり、社会的意義があり、「名門校」を自認するなら——
本来「選別」すべきは、勉強で困っている子ではないでしょうか?
なぜなら、もっとも難しく、社会的意義が高く、一番“教育力”が問われる場面ですから。
なのに現実には、成績上位者を選びます。
なぜなのでしょう?
営利企業やプロスポーツのように、即戦力を選ぶ場とは違います。
これから数年間かけて子どもを「育てる」話のはずです。
「よい生徒を集める」のは、まさか教育力がないから、なんてことではありませんよね?
だとしたら、手っ取り早く儲けたいから?
……そんなこともなくて、単に「今までの常識だから」ではないかと思います。
人を育てるのは時間も手間もかかり、確実性もない。
コスパが悪い。経済的に見合わない。
投資として魅力がない。
だからこそ、すでにできる子・扱いやすい子を集める方が手っ取り早い。
そう考えるのは、合理的であると同時に、時代の要請でもあったのかもしれません。
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第二部:なぜ「選別」が機能したのか
高度成長期のシステム
「上位層を伸ばせば社会全体が効率的だ」という考え方は、
確かにうまく機能していた時代がありました。
戦後の高度経済成長期をはじめ、基本的に明治以降の「坂の上の雲」を追いかけた多くの時代。
(坂を登り切った瞬間に迷走した時代(第一次世界大戦後、"Japan as Number 1"と言われた後)もありますが、それはそれで興味深いので別で考えます)
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「リーダーと兵隊」モデル
人口が増え、産業が育ち、社会が豊かになり続ける時代。
この時代の教育モデルは非常にシンプルでした。
優秀な人=リーダー
その他大勢=兵隊
兵隊側は、深く考えず、リスクも背負わず、
「偉い人の指示」を実行するだけで生活できる。
それは合理的でしたし、望まれもしました。
教育も受験産業も、そのモデルが再生産しやすい構造になっていました。
パチパチ。
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第三部:これからの時代
人口減少と多様化
しかし、これからは違います。
日本の人口は減り続け、
高齢者比率は上がり、
産業は大きく変わり続ける。
価値観も人口も、想像以上に多様化し、
一部は極端な方向へ先鋭化するでしょう。
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「総力戦」の時代
こうした時代に、
「リーダーと兵隊モデル」はまず機能しません。
今すでに多くの分野で苦しさが出ています。
戦いになぞらえるなら、企業は総力戦を強いられています。
だからこそ、
• 多様な才能を活かす
• コミュニケーションの更新
• 育成への本気度
が問われる時代です。
ご縁のあった人を“選り好み”ではなく、育てる必要があります。
けれど、人を育てるのは本当に大変です。
環境の違いが大きければ、コミュニケーションすら困難になる。
大切に育てるとは
「要望を全て聞く」ことではなく、
「未来とルートを共有し、すり合わせ続けること」。
そのコミュニケーションは、上意下達とは大きく異なります。
さらに、人によっては「大切にされ方」が独特で、
好きなことしかしたことがない場合もあれば、
学校システムに染まりすぎて“おじさん化”した子もいます。
手法の一般化はほぼ不可能です。
古い価値観のままでは、とても生きづらい時代になるでしょう。
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個人に求められること
ここからは、視点を個人に戻します。
こうした条件が揃っていく社会では、
個人には次のような姿勢が求められるはずです。
• 常に教育され、成長を求められる
• 全人格で評価される
• 具体的な指示はなく「自分で考える」
• 所属では自分を説明できない
• 唯一無二の“自分”を直視する
さらに、
立場が変われば「誰かを育てる責任」が発生します。
その成果も求められます。
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そんな未来に備えて、大切にしたいことがあります。
言われたことをやるだけでも、
好きなことだけをするのでも足りない。
学びそのものを楽しむこと。
できない自分を面白がること。
そして、自分の学び方を少しずつ更新していくこと。
好きなものはたくさんあっていい。
下手でもいい。熱があれば十分。
こだわりは強すぎないほうがいい。
誰とでも、何とでも組める柔軟さが大切。
いろんな分野をつまみ食いする「分散投資」の発想が向いています。
そのうえで、
強烈な手応えがあるものに出会ったら——
その瞬間だけフルベットすればいい。
世界は一方向だけではありません。
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結び:大人が変わることから
難しく聞こえたかもしれませんが、
ここまでの話は、よく思い返すと子どもの学びそのものです。
節操なく、飽きっぽく、次から次へと新しいものに飛びつき、
自分で勝手に楽しむ。
それこそが、実はもっとも未来的な学び方ではないでしょうか。
そして子どもたちにそれを身につけてもらうためには、
周りの大人が「学ぶこと」を楽しんでいる姿を見せるのが一番です。
新しいものに出会い、
おもしろがり、
下手な自分を笑い、
上達した自分を褒め、
気づけばそれなりにできるようになっている。
そんな“学びの先生”に、
まずは大人がなっていけば、
きっと思いがけない贈り物がたくさんついてくるはずです。
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