2018年6月29日金曜日

(生きた教材から学ぶ:サッカーW杯編)決断の素晴らしさと、素晴らしさゆえの危惧

ぼくは今、子どもたちの指導・監督・コーチング・各種アドバイスをする立場なので、思うところありまして。

昨日の夜のサッカーW杯、
セネガルvsコロンビア
日本vsポーランド

終電で帰って、後半15分くらいから、
つまり日本とポーランドがお互いボール回しをしているところをテレビ観戦しました。
(選手起用や試合経過は、帰りの道すがらチェックしていました)

◎ 快哉事
△ 危惧
☆ 希望

◎ 快哉事
   なんといっても、批判を恐れず、リスクを取って勝負に出た。
   選手がそれを理解し、納得し、行動した。

   批判を恐れてリスクを取らないことが、むしろ最近の流行ですから、
   これを拍手喝采です!!

△ 危惧
   一方では、結果が良すぎた。
   監督の指示に従って、一致団結して行動することを是とする論調が強まるでしょう。
   ただでさえ、「同調日本」

   選手一人一人が、自分で考えることを放棄し、
   監督の指示に従うこと、みんなに合わせることを絶対視してしまうと
   結果として、批判を恐れて、リスクを取らない人が増えてしまうでしょう。

☆ 希望
   監督と選手は対等。
   むしろ現場を肌で感じている選手のその場の判断こそが重要だと
   ぼくは思います。

   もちろん、単に反発や思いつき、自分勝手な行動は称賛されませんが、
   そのレベルではどうせ高いところまではいけない。

   さらなる高みを目指すなら、選手は選手で勝負して、
   監督やコーチも真剣勝負して、
   お互いとことんまで考えて話し合って納得すること。


「同じ日本人としてうれしい、誇りに思う」
という立場でもなく、

自分は涼しい部屋でビールを飲みながら、
「もっとやらんかい!盛り上がらんからつまらん!」
という立場でもなく、

確率を計算して、
「ルールの範囲内で勝つために合理的判断をすべき!」
という立場でもなく、

簡単な答えなんて見つからないから、
だからこそ一生懸命勉強して、自分で考えて、人と話し合って、
なんとか少しでも良い方向をもがいてあがいて試行する立場として。


うちの子どもたちには、
もちろんぼくは一生懸命考えているけれど、
だけど、それを軽々と越えていってほしいよ。


ところで、
セネガルのシセ監督のファンになりました。

2018年6月25日月曜日

大垣(仮称)、ぱんがないって!!

悲報!












大垣(仮称)、ぱんがないって!
  「大迫、半端ないって」のイントネーションか、
  「桐島、部活やめるってよ」のリズムで。

パンがないならどうするか?
悲嘆に暮れるのか、誰かのせいにしてグチグチ言い続けるのか。

パンがないなら、ケーキを作れ!
知恵を絞って、汗水垂らして、
もっと良いものを、これまでにないものを、自分の力で作ろう!

何か道があるはず!
何か方法があるはず!
どうにか出来るはず!


後から振り返れば、あれが朗報だったと気づくはず。


信じているし、諦めないから、
一緒にがんばろう!!


2018年6月22日金曜日

どうしてぼくが、サッカーの予想を(得点から展開まで)バシッと当てられたのか(勉強にも通じる)

⇒ 小学生の落書きです。結構うまい。

蹴球世界杯。
盛り上がってますね! (ほんとかな)

見ている生徒さんが結構いるので、話題にも載せています。

先日のコロンビア戦、
ぼくの戦前の予想はこうでした。

【2-1で日本が勝つ】
  なんかふらっと日本が1点取って、
  後半中頃に同点に追いつかれるけれど、
  また後半最後の方で、ふらっと1点取って勝つ

かなり近かったと思いませんか?
子どもたちを前に、鼻高々です(笑)!


そして、試合後、
どうして当てられたのか、種明かしをしています。
これって、勉強においても大事なことだと思うので。

観点は2つあります。
1.まじめな観点
   端的に言えば、日本が弱すぎたから。

   戦前、あれだけ弱いと、相手も舐めるでしょう。
   舐めるというか、当然、勝ち進む前提で考えるでしょうから、
   初戦にピークを持ってくるはずがない。

   ところが、スポーツ、試合、勝負、特に団体競技は何が起こるかわからない。
   ふわっと隙を突いて、日本がたまたま1点取れば、展開が変わってきます。

   なかなか追いつけないと、徐々に焦りも出てくるでしょう。
   ムラの多いタイプは特に、良いときは良いけれど、悪いときは冷静さを失う。

   実力的に考えて、いつかは同点に追いつかれる。
   すると、相手は落ち着きを取り戻し、一気呵成に攻めてくる。
   そこにまた、隙が生まれる。

   ぽろっともう1点、日本が取っちゃうこともあるんじゃないの?


2.不まじめな観点
   予想としての面白みと、仮説思考。

   実力的に考えて、0-2で負けるでしょ、と予想しても、
   おもしろくもなんともない。
   スポーツに興味がある人ならたいていそのくらいの予想だろうし、
   あとは、「日本がんばれ」の人が希望的観測と神風的なことを言うだけ。

   日本が勝つかもしれない、という1つの仮説を立て、
   そこに論理を付与していくとどうなるか。

   みんなが言いそうなことなら、言う必要は無いわけです。
   みんなが言わないようなこと、見落としているようなことがないかな?
   そういうことであれば、言う意味がある。

   そして、もし当たろうものなら、鼻高々なわけです(笑)。

まあ、たまたまです!


ここから学んで欲しいこと。
□ 勝負は、やってみなければわからない
□ 弱いからこその勝機もある(隙を突く)
□ みんなと同じことを声高に言う必要は無い(特にネット社会において)
□ 人と違った観点を持って、自分で考えよう

☆ 未来のことを考えるのって、楽しいよね!!


ちなみに、第2戦の話に当然なってしまうのですが、
もう予想としての面白みはないかなと思っています。
どちらも本気の勝負になるだけ。
つまり、実力通りの結果が妥当かな(1-3くらい)と話しています。


2018年6月8日金曜日

子どもの「むん!」っていう表情、わかりますか?

言葉でどう表現したものか。

子どもの「むん!」っていう表情、
わかりますか?

目が見開いて、鼻の穴がちょっと開いている。

「よし、やったるで!」

そんな心境じゃないかと思うのです。

この表情が出ると、ぼくは心の中でガッツポーズをしています!



2018年6月4日月曜日

エビデンスだかカニデンスだか知らんけど、楽しないようにした方が良いと思う件

これまでにないくらい急速に社会が複雑化している現代、リスク管理、コンプライアンスの重要性が増し、
また限られた予算を効率よく使うために、エビデンスを提示することを求められることも増えていると思います。

一部の声の大きい人のごり押しがまかり通った時代よりも、一歩前進とぼくは思います。

しかし一方では、特に個人の立場、特に若い人の立場に立った時に、果たしてそこで止まってよいのだろうかとも。(つまり、そこで止まってはいけないのではないかと)


歴史を振り返れば、前例主義・硬直した組織が敗れ去り、多くの人々を不幸にした「エビデンス」は、枚挙に暇がないほどでしょう。
それ以上に、個人にとってみれば1回限りの人生。18歳の夏は一度しかありません。

どこかの誰かが、「うまくいった」とされる事例は、
もちろん参考になる部分はあるにしても、「エビデンス」があるから大丈夫!
とはならないはず。
実際には、いろいろな要素が複雑に絡み合い、ちょっとした偶然、
些細なボタンの掛け違い未来を大きく変えてしまうことだってあるでしょう。
たまたま現時点で「うまくいっている」ように見える事柄に、
どの程度の信頼を置いていいものでしょうか。


そんな楽をしようとせずに、
いつもこの瞬間瞬間で能力の限界まで考えて挑戦し、修正し、とにかく歩き続ける。
他人の「成功」をなぞるだけの人生って何なんでしょう。
仮に「成功」することはあっても、幸せになるとは思えない。


似たような意味で、東京中心の発想を、若い世代から変えていったほうが良いと思っています。
東京でやっていることをまねしたって(簡単に儲けられるかもしれないけれど)
どんどん人が東京に集まるだけではないかと。
東京にはないもの、歴史や文化、自然も大切ですし、
東京を飛ばして一気に世界とつながっていくことも大切だと思います。
むしろ東京の人があこがれて、集まってくるような「前例のない」試みをすべきではないかと思います。

前例のないことについて、「エビデンス」を出すことが難しいです。
しかし、所詮「エビデンス」なんて失敗したときの言い訳材料に過ぎないのではないでしょうか。
そこに、時間と労力を費やすくらいなら、「懸命」に考え行動したほうが
将来の可能性は広がると思います。


『目が前向きについているのはなぜだと思う?
  前へ前へと進むためだ!』
(のび太の先生(名前わからん))

しずちゃんには伝わらなかったけど。

2018年5月24日木曜日

言葉を文字通りにしか解釈しない大問題


日大アメフト部の問題、国会でのうんざりするようなさまざまな問題、さまざまな企業のさまざまな不正。

「あり得ない!」と専門家が言えば言うほど、むなしく聞こえてしまいます。

* 藤井君や大谷君に対する「ありえない」は、
   楽しいニュースです!

各種問題がこの先ずっと、子どもたちの世代まで続くのかと思うとぞっとします。

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そもそもこれらの問題の本質は何なのか?

ニュースなどを見聞きしていると、話がねじ曲がっていると感じるのはぼくだけでしょうか。

★★
言った/言わない、指示があった/なかった、合った/合ってない、証拠がある/ないといった話は部分的な話に過ぎないと思うのです。
★★

「相手をぶっつぶしてこい!」と言葉では確かにあったのだとぼくも思います。しかし、あくまでルールの中での話であるのは当然とコーチは思っていたのでしょう。元々、強い言葉、日常ではあり得ない表現を使う文化的背景があったであろうことは、激しいスポーツの世界ではありそうなことだと思います。ボクサーがコーチから、「相手をボコボコにしてこい」と言われることはあるでしょう。だからといって、そのボクサーがボクシングの範囲を超えて相手をボコボコにするでしょうか。

もっと言えば、悪口として「死ね」などと言う人はたくさんいるでしょうし、聞いたことがある人も多いでしょう。だからといって、本当にその人が誰かの死を望んでいるか?「君の代わりに殺してきてあげたよ」といったら感謝されるでしょうか。


注) 日常から、特殊な言葉、「誤解を招く」恐れがある言葉は使わない方が良い。
注) 実際にそのようなことが起きてしまったのであれば、
注) 即座に止めに入ってその場で謝罪すべきであるという件は、
注) それはそれで狂ってるなと思いますが、今は置いておきます。
注) (もし、本当に「ありえない」なら、試合を中断・中止しなかった相手側や審判も同罪でしょう)

逆に国会では、特に言葉としては言っていなくても、状況の中で「わかるでしょ」ということが横行し、都合が悪くなれば、「そんなことは言っていない」で罪を問われることはありません。やくざ映画の親分が、直接は何も言わないことと同じです。
いわゆるご飯論法(「今朝、ご飯を食べましたか?」「いいえ、ご飯は食べていません」(パンを食べた))。「○○罪という罪はない」という発言は、その典型かと思います。
こんな屁理屈のやりとりに毎日何億円も掛けるならば、もっと他にお金の使い道があるのではないでしょうか。

言葉を直接文字通りにしか理解できない、または、わざとしようとしない。
『言われたことをやっていれば怒られない』ということなのでしょうか。
もしそうだとすれば、そういう文化はどこで育まれているのでしょうか。


言葉や文書、論理に対する過信、
人間に対する過信、(人間ってバカだよ。もちろんぼくも)
逆に言えば、総合的な判断の欠如が、共有できる常識がないこと、
そして過去の「事実」に焦点が当たりすぎて、未来に対して建設的な議論を積み上げられないことが、
今ぼくたちが当事者として、議論すべきことなのではないでしょうか。


一部の言葉だけを取り上げても、全体の状況はわからない。
インターネットの普及とともに、文字だけの情報が一人歩きする状況です。
しかし子どもたちは、『点を取る』、『試験に受かる』ための勉強しか教わっていませんし、余計なことも含めていろんな話をする年長者もそばに居ない状況が多いと思います。

ぼくの友人で、小学校でバスケットボールを教える手伝いをしている人がいるのですが、
しばらく前に言っていました。何度注意してもふざけている子がいたので、「真剣に練習しないなら帰れ!」と言ったらそのまま帰ってしまった。家に帰ってお母さんから「何で帰ってきたの?」と聞かれるとその子は「帰れと言われたから」と。不思議に思ったお母さんが問い合わせて、状況がわかったそうですが、言葉を文字通りにしか解釈できない問題は、今も身の回りにたくさんあるのではないかと思います。

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ちなみにですが、ぼくは違う文脈(英語の時制の話)の中で、言葉や文字と、
伝えたい事ってずれる場合があるよね、って話はよくしています。
それは、『過去形』の話。

過去形って、どういうことを言うときに使う表現?
「過去のことを言いたいとき」
とほとんどの子は伝えます。

もちろんそういう面はあるのですが、もっと隠された意味があるんじゃないかな?
たとえば、、、
「あなたは、むかし、かわいかった」
と言われたら、それってどういう意味だろう・・・

言葉と意味がずれることがあることをよく知って、
上手に使い分けることが、まだまだAIにはできないだろう、
人間にこそできることではないでしょうか。

国語は、特に丁寧に、超スローリーディングが良いなと思っています。

そして全体を通して、
普通に話をすること、きちんとコミュニケーションを取ることが何より大切だと思っています。(立場関係なく)

* 「わかった?」と聞くと、たいていみんな「わかった」と答えるけれど、
* 本当にわかってるの? いい加減な答えをしないでね。

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今、人類は1つの大きな分岐点に立っているのではないでしょうか。
人類の体や脳は、こんなに大きくて複雑な社会を生きていくようにはできていないはずです。せいぜいが数十人から数百人単位で狩猟採集しているのが、自然状態の人類の姿でしょう。認識力や言語の限界に近づいているように思えるのです。

そこでこれからの展開を考えると。

A: 押しの強い、声の大きい人の意見を通すために、その他の人はじっと我慢をする(現状)

B: 少人数のグループに分断して、慎ましく暮らす(かつて自然主義者や共産主義者が目指した世界)

C: 複雑な状況を、総合的に判断し、未来に向けて建設的な議論ができるよう、人類が進化する。言葉に代わるコミュニケーションの方法を発明しても良いかもしれません。


ぼくは、Cを目指しています。
微力ながら、人類のお役に立てたらと。

繰り返しになりますが、人間ってまだまだバカだなと思います。
ぼく自身に対しても、もちろんそう思います。
でも、だからこそ、少しでもましな方向へと努力し続けるものではないでしょうか。



***

一応断っておくと、ぼく個人としては、
ただ偉そうにしているだけのおっさんとか、
たまたま成功して天狗になっている人、
その周りに群がっておこぼれを頂戴しようとしている人、
上意下達の硬直した組織、
有無を言わせぬスパルタ式?の教育
など、虫唾が走るほど嫌いです。

ただ、個人の好き嫌いのことと、
未来志向で議論を構築することは、分ける必要があると思っています。

2018年5月18日金曜日

読んで良かった、大変だ。『収容所のプルースト』

最近読んで、人に(子どもたちも含めて)薦めまくっている本です。


『収容所のプルースト』(ジョゼフ・チャプスキ)




読みどころは2つあります。

1.極寒の収容所。文字通り一寸先は闇の中で、捕虜たちの取った行動は?

   ポーランド人画家であったチャプスキは、1939年、
   ドイツとソ連による相次ぐポーランド侵攻によって、捕虜となる。
   収容されたのは、ソ連領。破壊された教会跡が収容所となり、
   零下40度の極寒の地で、昼間は強制労働、夜は南京虫だらけの毛布。

   肉体と精神の極限、絶望の中、
   捕虜たちは、人間性を保つ最後の方法として、
   何の道具も要しない、記憶だけを頼りにある知的作業に取りかかった。
   毎回、誰かが自分が一番よく知っていることを他のみんなの前で講義をする。
   軍事、政治、文学・・・
   目の前の現実とはあまりにかけ離れたテーマについて、耳を傾ける。

   著者は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』
   (A la recherche du temps perdu)の連続講義を行う。

   本書は、その連続講義の再現したものです。

2.『失われた時を求めて』の解説本である

   さっそく、原書を買ってみました。
   ただ、ぼくが読むと200年くらい掛かりそうだな。。。
   ということで。
   



   英語版も買ってみました。
   
   



   ついでに、日本語版も。
   
   

ぼくとしては、岩波版の方が読みやすいです。


興味を持ってくれた中学生、高校生がいるので、
一緒に少しずつ読んでいこうと思います。






(生きた教材から学ぶ:サッカーW杯編)決断の素晴らしさと、素晴らしさゆえの危惧

ぼくは今、子どもたちの指導・監督・コーチング・各種アドバイスをする立場なので、思うところありまして。 昨日の夜のサッカーW杯、 セネガルvsコロンビア 日本vsポーランド 終電で帰って、後半15分くらいから、 つまり日本とポーランドがお互いボール回しをしていると...