【英語は単なる道具】  じゃなくて、思考の新しいインフラです。

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。


英語は単なる道具だから、、、、

という言い方を、よく耳にするなと、思っています。

たとえば、、、



ざっくりいってしまうと、

★ 道具なんだから、難しく考えずに、
   ちゃちゃっとマスター出来ますよ!

★ 単なる道具に過ぎなくて、
   大事なのは中身ですよ!


そういう趣旨であると、解釈しています。
なるほど、と思える面もたくさんあります。



しかし、結論から言うと、
まったくそうではない面もあるのではないかと
ぼくは思うのです。


新しい、まったく違う言語体系を学ぶということは、
新しい思考法を学ぶことであり、
極論すれば、新しい人格を身につけることなのではないか。

それは、単なる道具という存在を超えて、
思考のインフラを開拓する、ということなのではないか。


そういう意味では、まったく異なる言語体系を学べる環境にある
ぼくたち日本人は、なんてラッキー!!



◎ 日本人でも、性格(ものを考える時の、思考習慣)によって、
   英語の得手不得手が決まるのではないか。


だから、
英語そのものの学習の前に、
英語的思考習慣の練習を徹底的にしたらいいんじゃないか。


*英語教材に関わっていらっしゃる方、一度ご検討ください(笑)。


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英語も、数学も、理科も、社会も、現代文も、古典も、
時には、家庭科や音楽も教えてるから(笑)、
わかることがあるんですね。

   (*そもそも、生徒さんたちはそれだけやらなければならないのに、
     一般に、先生たちは自分の好きなことだけやっていて、
     ぼくには、ずるいと感じます)


★ 古典を教えた後に、英語を教える

★ 英語を教えた後に、古典を教える

★ 小論文の指導をしている

そんな時に、思うんですね。

● 英語は、相手に伝えたいこと(主張)がある人たちの言葉

● 日本語は、特に相手に伝えたいこと(主張)がない人たちの言葉


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古典といえば、たとえばこれ、
『源氏物語』の冒頭です。
 いづれの御時にか、女御・更衣あまた さぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして やすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
(『源氏物語』 桐壷)




ずいぶん新しいですが、こういうものも、もはや我々には、古典ですよね。
『たけくらべ』の冒頭です。

 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當ことごとしく、一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商賣人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着の支度もこれをば當てぞかし、南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等萬倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此あたりに大長者のうわさも聞かざりき、住む人の多くは廓者にて良人は小格子の何とやら、下足札そろへてがらんがらんの音もいそがしや夕暮より羽織引かけて立出れば、うしろに切火打かくる女房の顏もこれが見納めか十人ぎりの側杖無理情死のしそこね、恨みはかゝる身のはて危ふく、すはと言はゞ命がけの勤めに遊山らしく見ゆるもをかし、娘は大籬の下新造とやら、七軒の何屋が客廻しとやら、提燈さげてちよこちよこ走りの修業、卒業して何にかなる、とかくは檜舞臺と見たつるもをかしからずや、垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐棧ぞろひに紺足袋はきて、雪駄ちやら/\忙がしげに横抱きの小包はとはでもしるし、茶屋が棧橋とんと沙汰して、廻り遠や此處からあげまする、誂へ物の仕事やさんと此あたりには言ふぞかし、一體の風俗よそと變りて、女子の後帶きちんとせし人少なく、がらを好みて巾廣の卷帶、年増はまだよし、十五六の小癪なるが酸漿ふくんで此姿はと目をふさぐ人もあるべし、所がら是非もなや、昨日河岸店に何紫の源氏名耳に殘れど、けふは地廻りの吉と手馴れぬ燒鳥の夜店を出して、身代たゝき骨になれば再び古巣への内儀姿、どこやら素人よりは見よげに覺えて、これに染まらぬ子供もなし、秋は九月仁和賀の頃の大路を見給へ、さりとは宜くも學びし露八が物眞似、榮喜が處作、孟子の母やおどろかん上達の速やかさ、うまいと褒められて今宵も一廻りと生意氣は七つ八つよりつのりて、やがては肩に置手ぬぐひ、鼻歌のそゝり節、十五の少年がませかた恐ろし、學校の唱歌にもぎつちよんちよんと拍子を取りて、運動會に木やり音頭もなしかねまじき風情、さらでも教育はむづかしきに教師の苦心さこそと思はるゝ入谷ぢかくに育英舍とて、私立なれども生徒の數は千人近く、狹き校舍に目白押の窮屈さも教師が人望いよ/\あらはれて、唯學校と一ト口にて此あたりには呑込みのつくほど成るがあり、通ふ子供の數々に或は火消鳶人足、おとつさんは刎橋の番屋に居るよと習はずして知る其道のかしこさ、梯子のりのまねびにアレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし、お前の父さんは馬だねへと言はれて、名のりや愁らき子心にも顏あからめるしほらしさ、出入りの貸座敷の祕藏息子寮住居に華族さまを氣取りて、ふさ付き帽子面もちゆたかに洋服かる/″\と花々敷を、坊ちやん坊ちやんとて此子の追從するもをかし、多くの中に龍華寺の信如とて、千筋となづる黒髮も今いく歳のさかりにか、やがては墨染にかへぬべき袖の色、發心は腹からか、坊は親ゆづりの勉強ものあり、性來をとなしきを友達いぶせく思ひて、さま/″\の惡戲をしかけ、猫の死骸を繩にくゝりてお役目なれば引導をたのみますと投げつけし事も有りしが、それは昔、今は校内一の人とて假にも侮りての處業はなかりき、歳は十五、並背にていが栗の頭髮も思ひなしか俗とは變りて、藤本信如と訓にてすませど、何處やら釋といひたげの素振なり。
(『たけくらべ』)

おそろしく長い引用になってしまいましたが、、、、

これは、、、、最初の一文のみです。。。。。






ものすごーーーーく、 乱暴にいっていまうと、、、

あ~、いつだったかな~、あのほら、あの人が、あ~だったでしょ、
だからほら、こ~なって、あ~なって、あ~、そういえば思いだした、
こんなこともあったよね、だからやっぱり、そうなのよ~、
それでもって、あの人がその後、あ~なって、こ~なって、、、大変よね~、
そしたらこんどは、こっちではこんなことがあって、あんなことがあって、、、
世の中って、無常よね~。 
よね~。


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ここでの引用を、2つとも、女性の作品にしたのは、
少し意図的です。

これは、小林秀雄の受け売りではありますが、




日本語、やまと言葉、やまと魂、、、というのは、
もともとは、庶民や女性の使う言葉であったり、心を表したものであり、
その対極にあるのが、漢文であり唐才であり。


公式な文書、仕事上の文書、など
つまり、

相手にはっきりと意思を伝える時の言葉としては、長く漢文が用い、


そうではなくて、

ひと所に定住し、隣近所の人も、先祖代々、ずーっと付き合いがあって、
だれが何をしたか、何を考えているかも、共通認識として持っていて、


その共感、共同体意識、連帯感、、、
を育むためのコミュニケーションとして使われ、発展してきたのが、日本語



だから、主張も、結論も、特に必要でなく、
今の感覚(現代的感覚、欧米的感覚)からすれば、
ただひたすら、
ダラダラ、ダラダラ、ダラダラ、、、

論理もへったくれもない!

言いたいこと(主張)が先にある訳ではない。

話が滑らかに繋がって繋がって、、、あー、いつの間にか。。。


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ただし、たとえ日本語を使っていても、
どうしても相手に伝えたいこと、主張がはっきりしている場合には、
ちょっと趣が変わります。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、萬人は萬人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、萬物の靈たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨をなさずして各安樂に此世を渡らしめ給ふの趣意なり。されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有樣雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。
(『学問ノススメ』福澤諭吉)
まだまだ、例示が多すぎて読みづらいかもしれませんが、それでもずいぶんわかりやすいと思います。






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学校教育を考えてみても、
自分の意見を述べる、相手を説得する、
という経験を積む機会は、残念ながらあまりありません。

英語ですらもが、言いたいこともないのに、
ただ単語の意味を覚える、例文を書き換える、括弧に当てはまる前置詞を覚える、
文脈も前後関係もなく、単なるパズル、またはクイズのようなテストばかりです。

数学なんかも、解法のパターンを教えてる、覚えようとしている。
理科、社会なんて、単なる暗記科目と堕している。。。



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それがそのまま
大学生や社会人になって、
『プレゼン』ができなきゃならない!

となって、プレゼンの『仕方』を一生懸命勉強するのです。


プレゼンの仕方を勉強するより前に、
プレゼンしたいことが、本当にあるのかな?

別にないんですよ。
リ○ナビで、片っ端から会社にエントリーして、
面接の仕方もすべて教えてもらって、
そこそこやって、給料もらえればいいや、

そうなれば、適当にパターンをまねして、見栄えだけ調整して、
こんな感じでしょ、と。
そこに独創的なアイディアも生まれるはずはありません。


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日本人が英語を勉強するためには、
英語を勉強する前に、

★ ちょっとテンションを上げる

★ 言いたいことを先に考える練習

そういうウォーミングアップを少しやってから、
英語の勉強をしたらいいんじゃないかなと思うんですね。


ということで、何人かの生徒さんと一緒に、
挑戦中です!!




**
あー、だけど、
ぼくは、日本語のような考え方は、貴重だと思いますし、
これから逆に、大切だと思っています。


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