2012年1月28日土曜日

都心の雪は、寒さのために氷になって、
なかなか溶けませんでしたが、
ようやくなくなってきました。

そんな時期遅れなのですが、
雪を見ていると、なんとも心があらわれるようで。

日本も、世界も、寒いところの文豪は特にすごいと思う。

雪をたくさん見ている人は、
心もそれだけきれいなのか、などと、
愚にもつかぬことを。



2012年1月15日日曜日

「楽しい」だけで、終わらせたくない(ぼくの勉強観)

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。

「あー、楽しかった」

楽しい授業、面白い授業、わかりやすい授業。。。
生徒さんたちの声を聞くと、学校の授業はよほど面白くないのかと
思ってしまうことも、しばしば。

たしかに、30人40人を一度に相手にしなければならない学校の先生は大変だと思いますが、であれば、どんどん変えればいいと、ぼくならば思います。
工夫することを止めてしまっては、プロとは呼べないと。(呼ばれたくもない人もたくさんいるのでしょう)
少なくとも、自分が親なら、自分が成長し続けていない先生に
自分の子どもを預けるのは、少し不満です。


話は戻って、
子どもたちは、良くも悪くも、本当に素直ですので、
楽しい授業をやろうと思えば、
わかりやすい授業をやろうと思えば、
実はそれほど、難しくはありません。

図や表をきれいにカラフルに工夫して、
実験を混ぜたり、最近なら、動画なんかも使って、
また、できるだけ体を動かさせて、大きな声を出させるようにして、
こちらもテンションを上げて、
褒めて褒めて、褒めまくる。
(変な例ですが、ナチスのやり方なんか、相当参考になるかと)

子どもたち(特に小学校低学年までくらいなら)は、大満足のはずです。


だけど、
「今日の授業は楽しかったな〜」
「あの塾はいつも楽しかったな〜」
ということと、
たとえば、その子が将来、自分の道を歩いていける、
もっと端的に言えば、「食っていける」ことは、
必ずしも関係がないのではないかと、
ぼくならば、考えてしまうのです。

もっと極端に言ってしまえば、
【楽しかった部分】しか覚えていないことの方が、むしろ多いのではないか。。。


ぼくが、集団授業をやらないのは、
アルバイトの学生にも、出来るだけ幅広い教養とコミュニケーション力を求めるのは、
そのあたりです。
(いえ、集団でやるから儲かるんだということは、
  ビジネス方面でアドバイスくださるの方々から
  いつも怒られることですが)


また、最近流行?の、【家庭学習の習慣付け】というやつにも、
同様の「その場凌ぎ感」を感じていて、

では、ぼくの結論は何かというと、(結論とまでは言い切れないのですが)
最後の最後のエッセンスは何かとなると、

◆ 【常に、結びつけを行う、思考習慣】
◆ 【思考を、クローズさせない】 ← 「わかりやすい」とはしばしば、思考をクローズさせてしまう
◆ 【頭だけで打算的に考えるだけでは、足りない】


子どもたち、一人ひとりに、こういった思考習慣を持ってもらうために、
一人ひとりの、「その時」を敏感に察知し、
◎ 思い出すきっかけ
◎ 考えるきっかけ
◎ やる気を出すきっかけ
を、どうやって、自分の中から掘り出していくか。

だから、必ず

【問いかけ】

の形を多用することになります。
「なんて書いてある?」
「何してくれって言われてる?」
「どう考える?」
「与えられている情報は何?」
「使える道具は何?」
「これと、これがわかったら、自動的にわかることは?」
「こういうしぐさをしたって、どういう気持ちなんだろうね?」
「他に今まで習った中で、似たものなかった?」
「どう考えた?」
「絶対にそうだと言い切れる?」
「どうやったら、確かめられる?」
・・・

それは、必ずしもその場としては、「楽しい」ものになるとは限りません。
「楽しさ」をある程度犠牲にしても、
ぼくがやらなければと思うことです。

そして、常に、試行錯誤し、自分自身が成長することが、
何より大切だと感じています。



だけど、一番一番大切なことは、
一人ひとりの生徒さんを、
ぼく自身が、【信頼】していること。


最後の最後は、それに尽きる。
それは、間違いの無いところだと思います。



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大学入試センター試験(2日目)

おつかれさまでした!

うまく行った人も、それほどでもなかった人も、
これからが本番!

気持ちを切り替えて、がんばりましょう!

ぼくの経験から言うと、ここからの伸びはすごいよ!


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「わかりやすい」は絶対か?

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。

いきなり変なことを言うようですが、(いつも言っていますが!!)
ぼくは生徒さんたちに、
『わかりやすく教えてあげよう』
とは、考えておりません。

時折、特に GMAT MATH 対策の中で、
すごくわかりやすいと、学生時代に教えて欲しかったと
お褒めにあずかることもありますが、
実は当人、大変戸惑っているところなのです。

なぜなら、小中高校生には、GMAT MATH 対策の方ほど、
「わかりやすく」教えてはいないつもりですし、
実際その方が良いと思っているから、そのようにしているわけです。

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【GMAT MATH 対策は、外科的】

GMAT MATH の授業を、なるべくわかりやすくしている理由は、次の3点。
☆ 時間がない
   MBA を目指して、GMAT を受けられる方のほとんどは、
   社会人の方です。
   学生は、自分たちのことを十分に忙しいと感じているでしょうが、
   (ぼくもそうでした!)
   社会人の忙しさと比べると、悠久の時を過ごしているようなものです。

☆ 目的が明確である
   MBA を取るために、留学をする。
   そのために、GMAT で欲しいスコアがある。
   それを取るためには、数学で、○点以上は欲しい。
   また、数ヶ月以内に「結果」を出さなければならない。

   目標に合わせて、大胆に、切るべきところは切り、
   必要最低限度に絞り込むことが出来ます。

☆ 大人である
   そして、これが何より大きいです。
   自分の勉強のスタイル、価値観、人格が、既に確立されており、
   純粋に知識の「インストール」に専念することが出来ます。
   ご自身に足りないところは何なのかを自覚され、
   その足りない部分だけを補おうとされているので、
   ぼくの優っている部分を、受講生の方の劣っている部分に
   「移植」する、という外科的作業をしています。


==========================

【生徒さんへの授業は、内科的】

それに対して、生徒さんに対する個別指導は、なるべくわかりやすく
しない方いいと思っている理由は、次の3点。
☆ 時間がある
   今の日本社会においては、
   10代20代の間に、(できれば25歳以前)
   どこかのタイミングで、自分を深く掘ることが出来れば、
   その後の成長も、安定も、ある程度は見込めるだろうと、
   ぼくは考えています。
   だからこそ、促成栽培的なこと、臓器移植的なことは、
   あまりしたくないわけです。
   なぜなら、その時間は決して、「自分を掘っている」時間ではないから。
   そのタイミングがいつ訪れるかわからない。
   それまで、しっかりと足腰を鍛えておいて欲しいと思うのです。

☆ 強みを活かす時代へのシフト
   ぼくたちが受けてきた教育は、
   おそらく「弱点を克服する」ことに主眼が置かれてきた。
   だけど、これからの時代を考えた時に、
   もし、特異な才能があるならば、それは思いっきり伸ばした方が良い
   とぼくは思っています。

   だから、授業はあくまでも、生徒さん一人ひとりが主役です。
   一人ひとり、それぞれから、何を引き出せるか?
   どういう才能が隠れているのかを、一生懸命探しています。
   そして、慎重に、かつ大胆に、それを磨いていかなければ。

☆ 大人ではない
   そして、これが何より大きいです。
   自分の勉強のスタイル、価値観、人格を、
   これから築いていく時期であること。
   だから、いつもいつもぼくが言うのは、
   『なんて書いてある?』
   その教材が、わかりやすかろうが、そうでなかろうが、
   自分の力で、自分の責任で、読み砕いていく
   それを通じて、自分の勉強スタイル、価値観、人格を
   形成していって欲しいと思うのです。
   今日数えてみたら、1時間あたり、「なんて書いてあった?」って、
   4回以上、言っていました(笑)。
   基本的に、「甘やかす」気はありません。
   鍛えて鍛えて、強くなる。 (なんて、実際は甘アマですが。。。)

   せせこましいことを考えず、
   力強く、雄大に、伸び伸びと、羽ばたいて行って欲しいのです。

   また一方では、「人格全体」を吸収してしまう可能性があること。
   当然ながら、ぼくの狭い見識など、楽々と超えていって欲しいみなさん。
   「好きな先生の科目は好き」という年代ですので、
   慎重に、慎重に(笑)


そして、、、大学生は、大人なんだか、子どもなんだか、
なんともぼくには難しいです(笑)



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2012年1月14日土曜日

花を買うこと

柄でもなく(笑)

花を買うことが、本を買うことのつぎくらいに好きです。


花屋に行って、いろいろな季節ごとの花(八百屋よりも季節によって変化する)を

見ているだけで、結構幸せな気持ちに。


最近では、とても変わった花や、派手な花も多くて、

何これ?

とびっくりすることも。



ちょっとぜいたくだとは思いますが、

機会があれば、子どもたちも連れていて、

選ばせてあげたいなあと思っています。



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大学入試センター試験(初日)

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。

東京は快晴に恵まれた1月14日。
大学入試センター試験の初日ですね。

受験生の方々には、当面の合格という目標はあるにせよ、
長き人生に、少なからず影響を及ぼす1イベントとして、
この試練を、前向きに、緊張感を楽しみながら臨んでいただきたいと願っています。


「プレッシャーの中で、平常心を保つ」


大学受験が、実質初めての受験らしい受験。
一発勝負で、失敗したらもう一年、友達が大学生活を満喫する中で勉強しなければならない。
そのプレッシャーは、17,8歳にしては、大きいと思います。

たとえば、理系の生徒さんですと、やはり
数学2つと、理科2つ
満点欲しいところです。

テストで、満点を狙いに行って、満点を取る。
これは、ぼくもその昔経験しましたが、かなりの緊張感があります。

実質的に、満点じゃなくて、98点だったらダメなのか?
と言われると、そんなに違いはないようにも感じられます。


しかし、満点と、1問間違いの98点では、
2点の差ではなく、もっと大きな隔たりがあると思います。


満点というのは、100点ではなくて、100点以上(無限大まで)の可能性を示します。
一方、98点は、あくまでも100点未満です。
そこには、最大で無限大の差があるのです。


そのくらい、自分にプレッシャーを掛けて、遊んでいました。


1点や2点のせせこましい、また、はしたないことを書いてしまいましたが、
それはそれ、そういうゲームだと思って、
一回限りの、一過性のイベントを、
楽しんで、自分の力にして欲しいなと思います。



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2012年1月13日金曜日

ここでは学び方を学ぶ、ここ以外はすべて実践の場

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。

GMAT MATH 対策は、限られた時間内に目標を達成するために、
いわゆる「大人の勉強」を徹底しています。

一方、小中高校生に対する授業では、もちろんお一人お一人違いはありますが、
基本的には、『学び方を学んで欲しい』と授業しています。
◎ どのように、教科書を読むか、授業を聞くか、質問をするか
◎ どのように、整理し、関連付け、確かな力と変えていくか
◎ どのように、「結果」を出すか

その考え方、プロセス、トライ&エラー、結果の評価の仕方。。。
そのすべてが、生徒さんたちにとって、
『本当の勉強』
であると、ぼくは考えるからです。

そして、『学び方』の中でも特に重要なのが、
『読み方』です。

見ることや、聞くことは、ある程度日常の中でもトレーニングできますが、
読むことは、意外と少なくなって来ています。

物事を考えるためには、そのための材料が揃っていなければなりません。

きちんと読めていない、またはきちんとした知識がない上に、
いくら「考えろ」といっても、無理な話。

いくら情報が増え、マルチメディア化していくとしても、
「読むこと」の比重は、軽くはならないのではないか、
少なくとも、「読める人」の価値は、高騰することはあっても、
下落することはないと考えられます。


読めるようになったら、当然その続きはあるのですが、
まずは、まずは、読めること、
そのために、読むこと


初めに言葉有りき


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2012年1月9日月曜日

(本)『次郎物語』(上)



男の子をお持ちのお母さん、将来のお母さんには、
ぜひ読んでいただきたいと思いました。

「男の子のわけのわからなさ」が、よくわかるのではと。

「運命」「愛」「永遠」 次郎の少年時代のさまざまな葛藤を描いた物語です。
引用(第一部より)
「そんなにやきもきするからなおいけないんだよ。」
「では、どうすればいいんですの。」
「つまり、教育しすぎないことだね。」
「だって、私には放ってなんかおけませんわ。第一あの子の将来を考えますと・・・」
「将来を考えるから、無理な教育をしないがいいと言うんだよ。」
「でも・・・そりゃあわましいまねをするんですよ。人が見ていない時に、飯櫃に手を突っ込んで、ご飯を食べたりして。」
「何もかも、もうしばらく眼をつぶるんだね。それよりか、差別待遇をしないようにきをつけることだ。」

もし、周到な用意をもって、大胆に事を行なうということが、それだけで人間の徳の一つであるならば、彼は、こうした生活の中で、すばらしい事上錬磨をやっていたことになる。しかし、策略だけの生活から、必然的に育つものの一つに残忍性というものがあるのだ! 

しかし、万一にもそのことが、お前んとこの喜太郎にわかり、それから次郎にもわかったとしたら、いったいどうやるんだ。・・・ねえ庄八、お互いに子供だけは、金でごまかせない男らしい人間に育てあげようじゃないか。

今では、彼は全く色合いの異なった三つの世界をもっている。その第一は、母や祖母の気持ちで生み出される世界、その第二は、お浜や父や正木一家に取り巻かれている世界、そしてその第三は、彼が入学以来、彼自身の力で開拓して来た仲間の世界である。この第三の世界は、新鮮で、自由で、いつも彼を夢中にさせた。彼が第二の世界を十分に愛しつつも、第三の世界のために、より多くの時間をさくようになったのに、不思議はなかった。

およそ世の中のことは、慣れると大てい平気になるものだが、差別待遇だけは、そう簡単には片づかない。人間は、それに慣れれば慣れるほど、表面がますます冷たくなり、そして内部がそれに比例して熱くなるものである。

「だから、商売でもうけて、大学へでもどこへでも、はいれるようにしたらいいじゃないか。」
「人間は、卑しくなってしまっては、学問も何もあったものではありませんわ。」
「なあるほど、お前はそんなふうに考えていたのか。・・・だが、もうそんな時代おくれの考え方はよしたほうがいいぜ。これからの世のなかは、まかり間違えば、子供を丁稚奉公にでも出すぐらいの考えでいなくちゃあ・・・」
「まあなさけない!」
「大学を出たって、丁稚奉公をしないとは限らないんだ。」

「しかし、心配することはない。人間というものは、心がたいせつじゃ。心さえまっすぐにしておけば、家なんかどうにでもなる。」

次郎は、声をあげてそれを仰いだが、その光が空に吸いこまれると、彼の眼は、いつの間にか北極星を凝視していた。 しかし、彼が「永遠」と「運命」と「愛」とを、はっきり結びつけて考えうるまでには、彼は、まだこれから、いろいろの経験をなめなければならないであろう。

彼はこの謝罪には、少しの偽りもなかった。かといって、それは純粋な感情の表示でもなかった。この言葉の奥には、感情とともに理性と意志とが働いていた。彼はもう一個の自然児ではなかった。複雑な人生に生きて行く技術を意識的に働かそうとする人間への一転機が、この時はっきりと彼の心にきざしていた。それほど、彼は、彼自身と周囲との関係をおもおもしく頭の中に描いていたのである。

ところで、そうした賛辞は、次郎にとって大きなよろこびであるとともに、また強い束縛でもあった。彼はいつも人々の賛辞に耳をそばだてた。そして、一つの賛辞は、やがて次の新しい賛辞を彼に求めさせた。彼は、彼自身の本能や、自然の欲求に生きる代わりに、周囲の人々の賛辞に生きようと努めた。それも彼の本能の一つであったといえないことはないかもしれない。しかし、そのために、彼が次第に身動きができなくなって来たことはたしかだった。しかも、時としては、彼は、そのために、心にもない善行にまで追いつめられることさえあったのである。

そう気がつくと、彼はすぐ立ちあがった。むろん彼はこれまで、叱言を言われない先に自分から進んでだれにも謝罪をした経験がなかった。だから、ちょっと勝手がちがうような感じだった。しかし彼は、もう一刻もぐずぐずしている時ではないように思ったのである。 

彼は、「運命」によって影を与えられ、「愛」によって不死の水を注がれ、そして「永遠」に向かって流れて行く人生のすがたを、彼の幼い知恵の中に、そろそろと刻みはじめていたのである。 

第一部より



2012年1月8日日曜日

素頭でも戦える

君たちはどう生きるか

人間というものが、いつでも、自分を中心として、
ものを見たり考えたりするという性質をもっているためなんだ。
それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になってくる。

しかし、大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。
人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、
大人の間にもまだまだ根強く残っている。
いや、君が大人になるとわかるけれど、
こういう自分中心の考え方を抜け切っている人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。
殊に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、
非常に難しいことで、こういうことについてすら、
コペルニクス風の考え方の出来る人は、非常に偉い人といっていい。
たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、
自分に都合の良いことだけを見てゆこうとするものなんだ。

しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、
人間には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、
自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、
世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。

お母さんも僕も、君に、立派な人になってもらいたいと、
心底から願っている。君のなくなったお父さんの、最後の希望もそれだった。
だから、君が、卑怯なことや、下等なことや、ひねくれたことを憎んで、
男らしい真直ぐな精神を尊敬しているのを見ると、
ーーなんといったらいいか、ホッと安心したような気持ちになるんだ。

君は、水が酸素と水素から出来ていることはしってるね。
それが一と二との割合になっていることも、もちろん承知だ。
こういうことは、言葉でそっくり説明することが出来るし、教室で実験を見ながら、
ははあとうなずくことが出来る。
ところが、冷たい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水を飲んで見ない限り、
どうしたって君にわからせることが出来ない。
誰がどんなに説明して見たところで、その本当の味は、飲んだことのある人でなければわかりっこないだろう。
<中略>
たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、すぐれた芸術に接したことのない人に、
いくら説明したって、わからせることは到底出来はしない。
殊に、こういうものになると、ただ眼や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、
それを味わうだけの、心の眼、心の耳が開けてなくてはならないんだ。
しかも、そういう心の眼や心の耳が開けるということも、実際に、すぐれた作品に接し、
しみじみと心を打たれて、はじめてそうなるのだ。
まして、人間としてこの世に生きているということが、どれだけ意味のあることなのか、
それは、君が本当に人間らしく生きて見て、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないことで、
はたからは、どんな偉い人をつれてきたって、とても教えこめるものじゃあない。
<中略>
だから、君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆかなければいけないんだが、
しかし、それにしても最後の鍵は、
ーーコペル君、やっぱり君なのだ。

だから、こういう事についてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、
真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。
君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、
少しもゴマ化してはいけない。

常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ


ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、
ーーコペル君、いいかーー
それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。

だから、コペル君、繰りかえしていうけれど、君自身が心から感じたことや、
しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない。
それを忘れないようにして、その意味をよく考えてゆくようにしたまえ。

だから、僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、
知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います。それで、僕は、これを
「人間分子の関係、網目の法則」ということにしました。
僕は、いま、この発見をいろいろなものに応用して、まちがっていないことを、
実地にためしています。

こうして、出来るだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、
学問というものなんだ。だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。
そして、そういう経験を前の時代から受けついで、その上で、また新しい経験を積んできたから、
人類は、野獣同様の状態から今日の状態まで、進歩して来ることが出来たのだ。
一人一人の人間が、みんな一々、猿同然のところから出直したんでは、人類はいつまでたっても猿同然で、
決して今日の文明には達しなかったろう。
だから僕たちは、出来るだけ学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。
そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。
骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことができないでいる問題のために、骨を折らなくてはうそだ。
その上で何か発見してこそ、その発見は、人類の発見という意味をもつことができる。
また、そういう発見だけが、偉大な発見といわれることも出来るんだ。
<中略>
しかし、そののぼり切ったところで仕事をするためには、いや、そこまでのぼり切るためにだって、
ーーコペル君、よく覚えて置きたまえ、--
君が夜中に眼をさまし、自分の疑問をどこまでも追っていった、あの精神を失ってしまってはいけないのだよ。


「練習なんかしないよ。ただ、おっかさんの手伝いを、ときどきしてただけさ。でも、君、
一つやりそこなうと、三銭損しちゃうだろう。だから、自然一生懸命やるようになるんさ・・・」

「いったい、君たちと浦川君と、どこが一番大きな相違だと思う?
「そうだなーー」
コペル君は、少々当惑したような顔をしました。そして、しばらくもじもじしていましたが、やがてさも言いにくそうに申しました。
「あのう、浦川君のうちは、--貧乏だろう。だけど、僕たちのうちはそうじゃない。」
「そのとおりだ。」
と、叔父さんはうなずいて、なおたずねました。
「しかし、うちとうちとの比較でなく、浦川君その人と君たちとでは、どんなちがいがあるだろう。」
「さあ。」
コペル君は、ちょっと返答に困りました。


人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。
どんなに立派な着物を着、豪勢な邸にすんで見たところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、
人間としての値打がそのためにあがりはしないし、高潔な心をもち、立派な見識を持っている人なら、
たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。だから、自分の人間としての値打に本当の自信をもっている人だったら、
境遇がちっとやそっとどうなっても、ちゃんと落着いて生きていられるはずなんだ。僕たちも、人間であるからには、
たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、
ーーまた、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、
いつでも、自分の人間としての値打にしっかりと目をつけて生きてゆかなければいけない。
<中略>
しかし、自分自身に向かっては、常々それだけの心構えをもっていなければならないにしろ、
だからといって、貧しい境遇にいる人々の、傷つきやすい心をかえりみないでもいいとはいえない。

コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。この言葉は、
「感謝すべきことだ」とか、「御礼をいうだけの値打がある」とかいう意味で使われているね。
しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。
「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、
われわれは、それに感謝する気持ちになる。それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」
という意味になり、「ありがとう」といえば、御礼の心持をあらわすことになったんだ。
ところで、広い世の中を見渡して、その上で現在の君をふりかえって見たら、君の現在は、
本当に言葉どおり「ありがたい」ことではないだろうか。
<中略>
君には、いま何一つ、勉強を妨げるものはないじゃあないか。人類が何万年の努力を以って積みあげたものは、
どれでも、君の勉強次第で自由に取れるのだ。


第一に君は、今まで君の眼の大きく映っていた偉人や英雄も、結局、この大きな流れの中に漂っている一つの水玉に過ぎないことに気がつくだろう。
次いで、この流れにしっかりと結びついていない限り、どんな非凡な人のした事でも、非常にはかないものだということを知るに相違ない。
ーー彼らのうちのある者は、この流れに眼をつけて、その流れを正しく押し進めてゆくために、短い一生をいっぱいに使って、
非凡な能力をそそぎつくした。また、ある者は、自分では個人的な望みを遂げようと努力しながら、知らず識らずのうちに、
この進歩のために役立った。また、中には、いかにもはなばなしく世間の眼を驚かしながら、この大きな流れから見れば、
一向役に立たないでしまった者もある。いや、偉人とか英雄とかいわれながら、この流れを押し進めるどころか、
むしろ逆行させるような働きをした者も少なくはない。そして、一人の英雄のしたことでも、そのうちのある事はこの流れに沿い、
ある事は流れにさからっているという場合もある。さまざまな人間が歴史の上にあらわれて来て、さまざまなことをやっているんだが、
結局、一人の人間のなしとげたことは、この流れとともに生きのびてゆかない限り、みんなはかなく亡んでいってしまうのだ。

その当時、ヨーロッパ諸国の軍隊は、一般に傭兵制度といって、雇い兵で軍隊を組織していた。兵士たちは給金を貰って、
その給金のために戦うのであった。ところが、フランスの軍隊を作り上げている兵士たちは、新政府によって新たに自由を与えられたフランスの民衆だった。
彼らは自分たちの愛する祖国のために、喜んで命をささげる人々だった。自由、平等、友愛、の旗印のもとに、新しい時代を生み出したばかりのフランスの人民には、雇い兵なんかが夢にも知らない、
勇気と精力とがあふれていた。


君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、
おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。
人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。
君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。


だからーー、だからね、コペル君、ここは勇気を出さなけりゃいけないんだよ。
どんなにつらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ。

また過ちを重ねちゃあいけない。コペル君、勇気を出して、ほかのことは考えないで、いま君のすべきことをするんだ。
過去のことは、もう何としても動かすことは出来ない。それよりか、現在のことを考えるんだ。
いま、君としてしなければならないことを、男らしくやってゆくんだ。こんなことでーーコペル君、こんなことでへたばっちまっちゃあダメだよ。
<中略>
そうすれば、君はサバサバした気持になれるんだ。

人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも、
ーーだから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、
あの思い出がなかったら、ずっとあとまで、気がつかないでしまったかも知れないんです。

後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえたんですもの。

少しも傷まないでどんどんとウロが大きくなってゆくものは、痛むものよりも、
つい手当がおくれ勝ちになるではないか。だから、からだの痛みは、誰だって御免こうむりたいものに相違ないけれど、
この意味では、僕たちにとってありがたいもの、なくてはならないものなんだ。
ーーそれによって僕たちは、自分のからだに故障の生じたことを知り、同時にまた、人間のからだが、
本来どういう状態にあるのが本当か、そのことをもはっきりと知る。
同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、
そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、
人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捉えることが出来る。

人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、
人間がもともと、憎みあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。
また、元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。

人間は、そんな自分勝手の欲望を抱いたり、つまらない見えを張るべきものではないという真理が、
この不幸や苦痛のうしろにひそんでいる。

人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、
過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。
しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、
ーー正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。


「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目醒めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、
私は見たことがある。」
これは、ゲーテの言葉だ。
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから誤りを犯すこともある。
しかしーー
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。


「学問や芸術に国境はない。」
こういう言葉は、君もどこかで聞いたことがあるだろうね。
全くこの言葉のとおりだ。ヒマラヤ山脈とか、ヒンズークシ山脈とか、崑崙山脈とか、アジア大陸の背骨といわれているけわしい山脈も、
また、タクラマカンのような大沙漠も、結局、すぐれた芸術の前進をさまたげることが出来なかったんだ。
千何百年の昔に、ギリシャ文明の流れが、こういう天嶮を乗り越え、それから支那の大陸を横切って、はるばる日本までとどいていたと思うとーー、
コペル君、ほんとうに驚かずにはいられないね。

日本人は、すぐれたものはすぐれたものとして感心し、ちゃんとその値打がわかるだけの心をもっていたんだね。
遠い異国の文物でも、すぐれたものにはこころから感心して、それを取り入れ、日本の文明をぐんぐんと高めて行った。そうして、
日本人も、人類の進歩の歴史を、日本人らしく進めていったんだ・・・

そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。ーー
君たちは、どう生きるか。




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吉野さんが己れを律するにきわめて厳しく、しかも他人には思いやりのある人ーーちかごろはその反対に、
自分には甘く、もっぱら他人の断罪が専門の、パリサイの徒がますますふえたようにおもわれますがーー
であることは、およそ吉野さんを知いとのひとしく認めるところでしょう。

私は、自分のこれまでの理解がいかに「書物的(ブッキッシュ)」であり、したがって、もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識にすぎなかったかを、
いまさらのように思い知らされました。

社会科学的な認識が、主体・客体関係の視座の転換と結びつけられている、ということの意味は、「へんな経験」の章のあとにつづく、おじさんのノート
ーーものの見方についてーーで、一段と鮮明になります。社会の「構造」とか「機能」とか「法則性」とかいうと、もっぱら「客観的」認識の対象の平面で受取られ、
しかも「客観性」は書物や史料のなかに書かれて、前もってそこにあるという想定が今日でも私たちの間にひろく行きわたっております。以前から問題になっている、
社会科学的認識と文学的発想との亀裂(それは同一人物のなかに両者が並存するのを妨げません)ということも、そうした想定に根づいているように思われます。
それにたいして、この作品の「おじさん」は、天動説から地動説への転換という、ここでも誰もよく知っているためにあまりにも当然としている事例をもち出して来ます。

天下り的に「命題」を教え込んで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのではなくて、
逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄を手がかりとして思索を押しすすめてゆく、という教育法は、
いうまでもなくデュウィなどによって早くから強調されてきたやり方で、戦後の日本でも学説としては一時もてはやされましたが、
果たしてどこまで家庭や学校での教育に定着したか、となると甚だ疑問です。むしろ日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、
先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。
いまや悪名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、
その傾向が教育の平等化によって加勢されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。
そうして、こういう「知識」--実は個々の情報にすぎないものーーのつめこみと氾濫への反省は、
これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育の振興」という名で求められるということも、
明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。
その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、--そのイデオロギー的内容をぬきにしてもーー
あの、私たちの年輩の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。

最後に亡き吉野さんの霊に一言申します。この作品にたいして、またこの作品に凝集されているようなあなたの思想にたいして
「甘ったるいヒューマニズム」とか「かびのはえた理想主義」とか、利いた風の口を利く輩には、存分に利かせておこうじゃありませんか。
『君たちはどう生きるか』は、どんな環境でも、いつの時代にあっても、かわることのない私達にたいする問いかけであり、
この問いにたいして「何となく・・・」というのはすこしも答えになっていません。
すくなくとも私は、たかだかここ十何年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、
ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。
そうです、私達が「不覚」をとらないためにも・・・。

東京の大学で英語でディベートしてそうな部 潜入調査計画

  今回我々は独自の調査により、駒場の杜に潜むという同胞の棲息を示す確たる証拠を得た。更なる調査を進めるために、特別潜入チームを組織する。数々の難関基準に合格し、最後は適当にクジで選ばれた3名の隊員に、今回の任務を依頼する。 ミッションコード: ZZZ02(寝るな!) ...