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2月, 2011の投稿を表示しています

昨日の自分には出来なかった選択を、今日するということ=それが成長

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 受験、就職、(転職)、(結婚)。。。 人生には、年齢に応じて(ある程度)自動的に訪れるイベントがあります。 その人生の岐路で、必ず人は悩み、それまでの人生を振り返ったり。。。 ぼく自身が、こだわってきたこと、 そして今、他の人にもお勧めしていることは、 『昨日までの自分なら、絶対に選ばなかった道を、今日は、選びましょう』 しかし、ゲン担ぎなぼくは、日々の小さな事柄にさえ、 □ 靴下を、どちらの足から履くか? □ どの指から爪を切るか? □ 何を食べるか? □ 通学・通勤で、どの道を通るか? □ どの本を買うか(買わないか) 昨日までの自分では出来なかったことが、 今日できること こそが、とても単純ですが、「成長」だと思います。 「昨日までの自分だったら、このまま寝てしまっていたな」 「昨日までの自分だったら、もーいーかってしてたな」 「昨日までの自分だったら、、、」 でも、「今日の自分は違う!」 それがたとえどんな小さなことでも、 毎日、ほんの小さなことでもいいから 積み重ねて行けたら。。。 と、ぼくは思うわけです。 ポチっとお願いします。 blogramランキング参加中! ^^ 

自分勝手な子どもにしないために

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 最近 「何かうまくいかないことがあると、他人のせいにする」人が多いなと 感じることが少なくありません。 でも、それが本当に「最近」だけのことなのか、 昔からずっとそうなのか、 むしろ最近は実は減少傾向にあるのか、すら、 本当のところ、ぼくにはわかっていません。 それどころか、 「この人自分勝手だな」、「他人や周囲のことをちっとも考えてないんだな」と思うのは、 あくまでぼくの主観であり、 それすらもが正しいとは言い切れません。 人間は本来的に自己中心的であるというか、 生命である以上、自己保全の本能が備わっているはずです。 その「本能」に抗ってというか、「本能」以外のものも使って、 何とかしていこうというのが、「知性」だと思います。 怒りにまかせて、「本能」をむき出しにして、他人を攻撃する、 それは「本能」に支配され、束縛され、流されているだけだと思います。 さて、残念ながら、子どもというのは、親のちょっとしたしぐさや言動から 学習する能力に、大人が思っている以上に優れていると思います。 そうでなければ、「言語」や「文化」を吸収し、使いこなすことは不可能だと思うからです。 親も人間である以上、完璧な人間であることは不可能です。 学校の先生も完璧ではありません。 もちろんもちろん、ぼくなんかとてもとても。。。 しかし、だからこそ、 『少しだけ自分を疑ってみる』 「疑う」ではありません、試みに「疑ってみる」 そういうことを生徒さん達にアドバイスしています。 それとともに、数学と、法律のことについては、 今やっている教科に関係なく、雑談として時々まぜるようにしています。 「Justice」なども良いネタです。 自分が当たり前だ、常識だ、 と思うことも、少しだけ疑ってみる、 見る角度を変えてみる すると、そこに新しい世界が広がっている場合もある。 そういうことが、本当の「知性」であり、 塾で必死に叩きこまれた、「旅人算」とか、「つるかめ算」とかが、 賢いということとは、全く関係がないと、 ぼくは思います。 「あの塾に通ったから」合格できた、 「あっちの塾はダメだけど、こっちの塾は良いらしい」 そうで

法学がつまらない???まさか!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 東大文科一類(法学部)の学生からしばしば、 「法学嫌い」と。 そんなバカな! あんな面白い勉強ないんじゃないの?とぼく。 だって、法学って、数学+物理くらい面白いはずでしょ! (。。。これを言うと、大抵引かれますが。。。) すべてを定義から行い、論理体系を作り上げているところ。 そして、それが社会の実際と関係しているところ。 やはり、数学+物理だと思うんですよね。 現実には、先生があまり面白くないそうで、 それで多くの学生は興味を失ってしまっているそうです。 なんてもったいない! 実際には、そういうこともあるでしょうが、 大学生にもなったら、ましてや東大生であれば、 先生が面白いとか、面白くないとか、 そういう次元じゃないところで考えて欲しいなあ。 ぼく自身は、所謂「理系」として学校に通い、 法律には全く興味もなく、 「人間が決めたルール」ごときに大したものはないだろう、 単に煩雑なだけ! っとずっと決めつけておりました。 それが、社会人を6年経験した後、 これからは、「インターネットの時代」ということで、 まさにその最先端にいたわけですが、 世の中が変わるならば、法律も変わらなければならないはず! コンピュータ技術がわかって、法律もわかる人材が、 これからは必要とされるはず! と思い立って、会社を辞めて法律の勉強をしました。 (2000年ごろです) そして、初めて真剣に法学に触れたのですが、 その面白さには、まったく魅了されました。 すべてのものごとが、論理的に繋がっていて、 その出発点が、(学説は分かれるものの)しっかり定義されていること。 人類の叡智に感動したものです。 そういう風に、テストのためでなく、成績のためでなく、 生の法学に触れれば、きっと面白いはず! っと、頼まれもしないのに、必死に説得しているのであります。 (まあ、説得してるわけでもなく、そういう見方もあるよと) ポチっとお願いします。 blogramランキング参加中! ^^  2

いやー、わからないね、これ、どうしよう?

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 5歳から50歳まで、いろんな科目を教えていて、 実際には、『わからないこと』や『知らないこと』ってしばしばあります。 でもそこで、大事なのは、 『そういう時こそ、腕の見せ所!』 ってこと。 そもそも、こちらがすべてを知っていて、 生徒さんが何も知らないで、 一方的に、「教えてやるから、話しを聞け!」 みたいなことは、 フェアじゃない、 とぼくは思っています。(感覚として) そんな風に教えてもらっても、子ども目線で考えれば、 『先生だから、いろいろ知ってて当たり前だよね。(私とは違う)』 となるだけで、 そのうち、自分がわかるかどうかというだけの基準をもって 『あの先生は、教えるのが下手だ』 そんな風に思考が回って行くのは、よくあるパターンだと思っています。 ぼくに言わせれば、 はっきり言ってしまえば、 先生がどうであろうが、今やらなければならないのは自分であり、 先生がどうだから、、、ということは、下手な言い訳に過ぎない。 だから、ぼくが大切だと思うことは、 ★ わからない、ということを共有してあげること (誰でも始めは、わからないし、できない、 ぼくなんか、いまだに、わからないことも、できないことも、たくさんある!) <いばるな!(笑)> ★ 「わからない」 時に、どんな技を使って、「なんとかわかる」に変えているのか? 「できない」ものを、どんな技を使って、「なんとかできる」状態に変えているのか? その技こそが、肝心だと。 □ 問題をしつこく読み返す □ 辞書、教科書、参考書を調べる □ 昔の単元まで戻って、既存知識の確認をする □ 例題、類題をやってみて、具体例からの理解を試みる □ 別の教科や単元でやったことを援用してみる □ インターネットで調べる などなど そして、それぞれの技を、どのように使っているか?、 どんな順番で使っているか? それはなぜか? そんな「技」を、本当は盗んで欲しいのです。 (たまに教えてしまいますが、本当は盗んで欲しい) 結局は社会に出れば、 知らないことだらけ、わからないことだらけ、できないことだらけ なわけです。

すべては、「贔屓」から始まる

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 学校(文部科学省なのか)や大手塾のやり方がどうかな~と 日々感じることが少なくありません。 その「違和感」のようなものがどこから生まれるのか。 そもそも、子どもたちに接する態度として、 「みんな平等」というのは、ありえないと、ぼくは思います。 『自分の子以外は、かわいいとは思わない』 これは、ぼくの妹が第一子を出産した後に言っていたこと。 (今はどう思ってるかしらないけど。。。) 極端ですが、でも、そうだと思います。 「この子をなんとか一人前にしなければ」 「この子には良い教育を与えたい」 「うちの子は、何か持ってるんじゃないか(親ばか含めて)」 そういう気持ちが、すべてのはじまりではないかと思うのです。 ぼく自身の過去を振り返ってみても、 勉強が楽しいなと感じたり、 いろんな物事に前向きに積極的に慣れたり、 結果いろいろ良い方向に向かったタイミングには、 必ず、「目を掛けてくれる」先生がいたり、友達(それもぼくにとっては師)がいたり。 それは、見方によれば、「贔屓」と映るかもしれません。 でも、当たり前でしょ。 1人の先生が、20人も30人も(ぼくのころは40人近く) カリキュラムが厳密に決まっている中で、 1年かそこらでどんどん入れ替わってしまう生徒を 一人ひとりに完全に対応するなんて、不可能でしょう。 アメリカの大学が、授業をインターネットで無料完全公開しているのも、 突き詰めれば、 そこにはそんなに価値はない ということの表れだと思います。 流れ作業みたいのは、 たしかに知識のインストールという意味では、効果はあると思います。 いくら段階別にしようが、レベル別にしようが、 所詮はインストール作業。 それをやる人は、「教育者」というよりは、「インストーラー」 「インストーラー」は、バカでも出来るし、儲かります。 本当にその子にとって為になるのは、 その子にとっての師の見つけ方を教えてあげることじゃないかなと。 その子にとっての師は、 現実に目の前にいる先生や、友達の中にも見出せるでしょうし、 書籍の中には、かなり大量に見出すことはできるでしょう。 また、自分の心の中にも見出すことができるかもしれません

(FOI-File7) 大学入学前に、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 【以前の記事はこちら(あらすじなど)】 (FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」) (FOI-File1) 中学生と、Justice! (FOI-File2) 中学生と、Justice! (FOI-File3) 小学生と、Justice! (FOI-File4) 高校生と、Justice! (FOI-File5) 東大生と、Justice! (FOI-File6) ぼくと、Justice! 大学入試もいよいよ佳境ですね。 みなさん、がんばってください。 一方では、推薦入学の方や、センター入試で志望校に合格した方は、  すでに大学に向けての準備期間。 というか、実質特にすることもなく、、、というのが実際ではないでしょうか。 (友達はまだ受験でしょうから) もったいない! 悲しいことに、ぼくも人のことは言えませんが、 今勉強に目覚めた人も、 日本の大学に進学すると、大抵はその意欲を失ってしまいます。。。 (それはなぜ。。。) もったいない! 勉強が楽しいな、そう思っている今、 一緒に、Justiceを聞きながら、「頭を動かし続け」ませんか? 詳細は、青山プレップスクールまで。 school@yukasi.net お問い合わせください。 ポチっとお願いします。 blogramランキング参加中! ^^  20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 【以前の記事はこちら(あらすじなど)】 (FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」) (FOI-File1) 中学生と、Justice! (FOI-File2) 中学生と、Justice! (FOI-File3) 小学生と、Justice! (FOI-File4) 高校生と、Justice! (FOI-File5) 東大生と、Justice! さてでは、ぼくの回答(解答じゃないですよ!) ★1-1: 直進して5人を轢くか、曲がって1人だけ犠牲になってもらうか? ぼくならば、直進すると思います。 気取った言い方をすれば、「命の重さは、∞」 1人の命も無限

(FOI-File6) ぼくと、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 【以前の記事はこちら(あらすじなど)】 (FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」) (FOI-File1) 中学生と、Justice! (FOI-File2) 中学生と、Justice! (FOI-File3) 小学生と、Justice! (FOI-File4) 高校生と、Justice! (FOI-File5) 東大生と、Justice! さてでは、ぼくの回答(解答じゃないですよ!) ★1-1: 直進して5人を轢くか、曲がって1人だけ犠牲になってもらうか? ぼくならば、直進すると思います。 気取った言い方をすれば、「命の重さは、∞」 1人の命も無限大ならば、5人の命も無限大です。 どちらが大きいかは、ぼくには判断つきません。 いくら5人を救うためとはいえ、 本来サイド・トラックにいた時点で、 ぼくが何もしなければ、事故に会うはずもなく、 今回の事故とは無関係なはず。 その人を、「わざわざ」巻きこんで、殺してしまう必然性は ぼくには考えにくいです。 一方、亡くなってしまう5人は、本当に気の毒だと思います。 しかし、だからと言って他の人の命を奪って、 その命の犠牲を払っても良いとは、ならないのではなかと。 別の見方をすれば、 助かった5人が、亡くなった1人の命の重さを一生背負っていき、 必要に応じては、その遺族に報いるようなことをするならば、 1人が5人を背負うよりも、負担が軽くて済むだろう、とも見ることはできます。 しかしこの場合、助かる人にも(そして助からない人にも)、 この事故に対する責任を負わせることは酷であり、 したがって、それはすべきでないと思います。 人は所詮は、いつか必ず死ぬわけですが、 その人の命を、誰か他人が判断して、「こいつは死んでも仕方ないだろう」と 処置することは、いかなる場合においても、 あってはならないと、(この授業で言う、categorically wrong だと) ぼくは考えます。 ★1-2: 隣の太った人を、押す? したがって、押しません。 ★2-1: 重篤な1人を救うか、比較的軽症の5人を救うか これも、大変厳しい判断を要求さ

(FOI-File5) 東大生と、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 【以前の記事はこちら(あらすじなど)】 (FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」) (FOI-File1) 中学生と、Justice! (FOI-File2) 中学生と、Justice! (FOI-File3) 小学生と、Justice! (FOI-File4) 高校生と、Justice! さて、今度は東大生とやってみました。 さすが、東大生!と思える点が、随所に。 ★1-1: 直進して5人を轢くか、曲がって1人だけ犠牲になってもらうか? Yさん:「私は、曲がります」 Sさん:「うーん、どうしようかな~、どうするかな~、曲がるってことは、その1人を殺しにいくのと同じですよね、うーん、うーん」 ↑ 今まで聞いた中で、最初の質問で一番悩んでいました。 理系の学生ですが、よく状況を整理して、かつ表面上の合理性だけでない 何かを感じようとしている、自分の頭でちゃんと考えよう、 そんな姿勢が強く表れました。 ぼく: 「何故?」 Yさん:「うーん、はっきり言ってしまえば、『数』です」 ↑ おおお、なんとシンプルかつ、こちらの意図(本質)を捉えた回答。 さすがです。 ★1-2: 隣の太った人を、押す? Yさん:「それは、さすがに私でも。。。(笑)」 Sさん:「押せませんね」 ぼく: 「なんで?さっきは、5人救うためなら、1人の犠牲は仕方ないって言ったじゃない!」 Yさん:「それはさすがに殺人じゃないですか~」 ぼく: 「罪だから、罰せられるから、ダメなの?5人を実質的に救うんだよ」 Yさん:「さっきの場合は、5人殺してしまうのも、ある意味自分が手を下すということだったけど、 このケースでは、5人死ぬ時には、自分は部外者でいられるから」 ぼく: 「Yさんが、部外者でいられるなら、何人死んでも、それは『正しい』ことなの?」 Yさん:「人はいつか死ぬものであり、究極的にはそういうことになります」 ↑ 開き直った素晴らしい回答。 ★2-1: 重篤な1人を救うか、比較的軽症の5人を救うか Mさん途中参加。 Sさん:「5人を助けるでしょうね~」 Mさん:「私もやはり」 Yさん:「これっ

(FOI-File4) 高校生と、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 【以前の記事はこちら(あらすじなど)】 (FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」) (FOI-File1) 中学生と、Justice! (FOI-File2) 中学生と、Justice! (FOI-File3) 小学生と、Justice! さて、今度は高校生とやってみました。 ★1-1: 直進して5人を轢くか、曲がって1人だけ犠牲になってもらうか? Yさん:「そりゃあ、しょうがないけど、曲がります」 T君: 「1人の方に行きます」 Rさん:「うーん、仕方ないですね~、曲がります」 ぼく: 「何故?」 Yさん:「5人殺すなら、曲がるしかない」 T君: 「5人死ぬより、1人死ぬ方が、被害が小さいから」 Rさん:「犠牲になる人が少ない方が良いから」 ぼく: 「人数の問題ってこと?」 Yさん:「はい」 T君: 「うーん、はい」 Rさん:「はい」 ★1-2: 隣の太った人を、押す? Yさん:「押すんですか?押さないです」 T君: 「さっきの法則からすると、押すんですかね~」 Rさん:「押せってことですか!えー、押しません、ってか多分、押せません」 ぼく: 「なんで?さっきは、5人救うためなら、1人の犠牲は仕方ないって言ったじゃない!」 Yさん:「だって、それって殺人ですよね」 T君: 「全然関係ない人を、殺してしまうのは良くない」 Rさん:「だってー、ダメに決まってるじゃないですか~、怖いじゃないですか~」 ★2-1: 重篤な1人を救うか、比較的軽症の5人を救うか Yさん:「5人を助けます」 T君: 「5人の方を救います」 Rさん:「その1人はかわいそうだけど。。。」 ぼく: 「何故?」 Yさん:「5人助かったの方が、喜ぶ人が多いから」 T君: 「やっぱり、犠牲は少ない方が良いから」 Rさん:「5人も死んじゃったら、大変じゃないですか~」 ★2-2: 健康な1人を犠牲にする? Yさん:「(笑)そんなのひどいじゃないですか~」 T君: 「やっぱり、その人は関係ないから、関係ない人を殺すのはよくない」 Rさん:「しません。無理です」 ぼく: 「何故?」 Yさん

(FOI-File3) 小学生と、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 【以前の記事はこちら(あらすじなど)】 (FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」) (FOI-File1) 中学生と、Justice! (FOI-File2) 中学生と、Justice! さて、今度は小学生と実際にやってみました。 ★1-1: 直進して5人を轢くか、曲がって1人だけ犠牲になってもらうか? R君: 「横道の方に行きます」 T君: 「1人の方に行きます」 ぼく: 「何故?」 R君: 「5人殺すなら、1人殺すのは仕方ないから」 T君: 「大勢の人を殺すのはよくないから」 ぼく: 「ハーバードの学生とあんまり変わらないね!」 ★1-2: 隣の太った人を、押す? R君: 「押さない、押さない」 T君: 「押しません」 ぼく: 「なんで?さっきは、5人救うためなら、1人の犠牲は仕方ないって言ったじゃない!」 R君: 「でも、押したら人殺しですよ」 ぼく: 「そうかもしれないけど、5人助かるんだよ」 R君: 「うーん、じゃあ僕が代わりに落ちます」 ぼく: 「ええ!死んじゃっても良いの?たまたま見てただけだよ」 R君: 「でも、誰かを殺すくらないら、自分が死んだ方がまし」 ★2-1: 重篤な1人を救うか、比較的軽症の5人を救うか T君: 「5人を助けます」 R君: 「5人を助けます」 ぼく: 「何故?」 T君: 「助かるかもしれない5人を殺すのは良くない」 R君: 「5人助かるなら、仕方ない」 ぼく: 「重篤な1人は、どう見ても辛そうで、うめいていて、、、見捨てるの?」 T君: 「5人助けるためだったら、仕方ないと思います」 R君: 「かわいそうだけど、仕方ないと思います」 ★2-2: 健康な1人を犠牲にする? R君: 「するわけない(笑)」 T君: 「しない」 ぼく: 「何故?」 R君: 「だって、その人は全然関係ない」 T君: 「人殺しになっちゃう」 ぼく: 「だって5人救えるんだよ」 R君: 「でもダメ」 T君: 「でもダメ」 ★ 結局ね ぼく: 「これは、何か意地悪なクイズを出して、性格判断しようっていうわけじゃない

(FOI-File2) 中学生と、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 【以前の記事はこちら(あらすじなど)】 (FOI) 「正義」について(Michael Sandel 「Justice」) (FOI-File1) 中学生と、Justice! さて、実際にやってみてどうだったか? ★1-1: 直進して5人を轢くか、曲がって1人だけ犠牲になってもらうか? Y君: 「うーん、でも曲がります」 B君: 「うー、曲がります」 ぼく: 「何故?」 B君: 「5人を殺しちゃうなら、仕方がないかな~」 Y君: 「5人殺しちゃまずいから」 ぼく: 「ハーバードの学生とあんまり変わらないね!」 ★1-2: 隣の太った人を、押す? Y君: 「うーん、押します」 B君: 「うーん、押すかな~、でもやっぱり押せません」 ぼく: 「なんで?押すといったY君は、さっきと同じ理由かな? 押さないといったB君は、さっきと話しが違うんじゃない?」 Y君: 「そうです。5人殺しちゃうくらいなら、、、あ~でも~、、、 やっぱり押せません。殺人になっちゃいますよね」 ぼく: 「そうかもしれないね。でも、5人助かるんだよ」 Y君: 「うーん、それでもやっぱり、自分の手で押すってのは~」 B君: 「僕もそれは殺人になっちゃうからダメだと思う」 ぼく: 「5人の命を救えるとしても?」 Y君: 「でもその5人は、僕が殺すわけじゃないから」 ぼく: 「じゃあ、自分がやるんじゃなければ、何人死んでもいいってこと?」 Y君: 「そうかもしれません」 ★2-1: 重篤な1人を救うか、比較的軽症の5人を救うか B君: 「5人を助けます」Y君: 「5人を助けます」 ぼく: 「何故?」 B君: 「その1人は、どうせかなり死んでしまっているから、5人救った方が良い」 Y君: 「医者としては、より多くの命を救うべき」 ぼく: 「重篤な1人は、どう見ても辛そうで、うめいていて、、、見捨てるの?」 Y君: 「仕方ないと思います」 B君: 「できるだけ見ないようにして」 ★2-2: 健康な1人を犠牲にする? B君: 「それはしない」 Y君: 「それは無理」 ぼく: 「何故?」 B君: 「その人は、関係ないから」

(FOI-File1) 中学生と、Justice!

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 Free, Open and Interactive learning platform の授業です。 先日は、中学生と、 ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「Justice」(正義について)を視聴し、 一緒に考えてみました。 とはいえ、特に帰国子女でもない中学生にとっては、 英語は速すぎるし、出てくる単語、そもそも日本語でも難しい概念が出てきたりもします。 でも、FOIでは、そういうのは、気にしない。 わからなくてもいいから、『本物に触れること!』 とにかく、見てみる、聞いてみる、 もちろん必要な個所はぼくがフォローして解説しますが、 自分なりにくらいついてみることが大切! (これも一つの、知的冒険です!) さて、一応ハーバード大学の説明とか、東大でも授業やったことあるよとか、 そして、「正義とは何だろう?って考える授業ね」くらいの軽い説明で、 すぐに視聴を始めました。 http://www.justiceharvard.org/index.php?option=com_content&view=category&layout=blog&id=9&Itemid=5 エピソード1の前半の、さらに前半です。 お話しは、もう有名だと思いますが、一応あらすじだけ。 Case1-1: あなたは、電車の運転手です。電車は、時速100kmで走っています。 今、ブレーキが故障してしまいました。 前方には、5人の作業員が、線路で作業をしていて、こちらの気配に気づきません。 このまま行けば、確実にその5人を引いてしまい、そうなれば確実に5人は死ぬでしょう。 ところが、1つ副線があることに気がつきました。 そちらに曲がれば、5人を引くことはありませんが、 そちらにも1人作業員はおり、その1人は確実に死んでしまいます。 さて、あなたはそのまま本線を進みますか? それとも副線へ逃れますか? Case1-2: 状況はほぼ同じですが、今度はあなたは電車を運転していません。 線路の上を渡っている、橋の上からこの状況を見ています。 ブレーキが壊れていること、このまま行けば5人死ぬことを、あなたは確信しています。 とこ

かわいい子には、○○をさせよ

20年後の未来のために、青山プレップスクールです。 さて、かわいい子には、一体何をさせましょうか? 旅?     そうですね。 苦労?      そうですね。 「若いうちの苦労は、、、」なんてことも言います。 失敗?   そうですね。 所詮人間は、痛い目に合わないと学べない  と、ぼくは思っています。 勉強?   広い意味ではそうですね。 運動?   何事も体が資本ですよね。 芸能?   若い感性を、競争にさらす 読書?   時空を超えた疑似体験 いろいろあると思いますが、 1つにしろと、言われたら、ぼくならば、、、 『冒険』 かなあ、、、(なんだ、「旅」と同じじゃないか) 一周回って戻ってきた感じですが、 今の子どもたちにとって、 「たび」では、軽すぎるかな。 そして、今の子どもたちにとって、 『冒険』とは何なのでしょう。 先の見えない恐怖と、 それと背中合わせの、ワクワクドキドキ感。 カブトムシを捕まえに、一人で山奥に行ってみたり、 魚釣りに川を上り下りしたり、 自分は一体、どのくらいまで速い球が投げられるんだろう、というのも1つの冒険でしたし、 さまざまな図鑑を見て、想像を膨らませていた時も、1つの冒険でした。 無謀という意味では、大学受験も冒険でしたし、 大学生活は、さまざまな無謀への挑戦だったのかもしれません。(良く言えば) 仕事は完全に冒険でしたし、 今でも常に未知なるものへ挑戦しているつもりではあります。 今の子どもたちにとっては、 渋谷に行くのが、1つの冒険なのでしょうか。(そういう面もあるんでしょうね) ゲームにのめり込むのも、1つの冒険なのでしょうね。 クラブ活動がんばるのも、未知なる自分の可能性への挑戦と言えるでしょう。 同じことを、書物の中に、勉強の中に、 インターネットもうまく使って、 本当はもっといろんなことができるんじゃないの? ゆとりなんて、論外ですが、 管理管理、競争競争、点数を如何に取るか、、、って、、、 いずれは自立していく子どもたちです。 自立するようになれば、甘いことはいっさい許されません。 (いっさいかどうかは、本当は何とも言えませんが) だからこそ、ぼくの目が黒いうちはといいますか、、、 思いっ