どうして、学校の勉強ができても、社会で活躍できないか

世間でよく言われている、まったく反対のこと。

  •  そこそこの大学出ないと、ちゃんと就職できない

  •  いくら学校の勉強が出来ても、幸せになれるとは限らない
こんな矛盾するメッセージを伝えられてしまっては、
「では一体どうすりゃいいの?」
と思わない子はいるのでしょうか?
そこをうやむやにされて、「とりあえず勉強しろ!」と言われても。。。

話は簡単で、たとえば、
「足の速い子は、スポーツ選手になれるか?」
のようなことだと思います。

飛びぬけて足の速い子は、足が速いだけではなく、運動能力全体が高いことも想定され、結果としてスポーツ選手として成功することが多いかもしれません。

一方では、たとえ今、足が遅くても、その人が成熟期を迎えるころには、早くなっているかもしれません。
また、足の速さが関係しないスポーツもたくさんありますし、走る速さは決定要因とはなりません。


勉強も同じことで、飛びぬけて出来る子は、それ以外にもさまざまな能力が高いかもしれませんし、
そうでない子にとっても、いろいろな能力はあるわけで、何かの決定要因にはならないはずです。
ただし、飛びぬけていないほとんどの子にとっては、「努力した量」と勉強の結果はそれなりの相関関係がありますので、その子がこれまで努力したかどうか?はある程度はかれるものだと思います。
そして、何かにがんばれて経験を持つ子は、他のことにも、前向きに考えられる可能性が、そういう経験がまったくない子に比べれば高い、というもの、ある程度言えると思います。

それだけ。

それだけであることを、でも学校や塾の先生は、言えないのかなあ。
その世界しか知らなければ、ぼくも言えないかもしれない。

こういう話の流れで、必ず出るのは、
「では、それをどうやって教育するのだ?どうやって評価するのだ?」

どう教育するかは、最終的には先生の力量に依存してしまい(相手がまだ若いので)ます。
しかし、それを実現できるシステム(教師教育、経営)にはどうやらなっていないことも、明らかでしょう。

評価に関しては、会社経営を見ても、1年単位など目先のためだけの経営をする会社がどうなるのか。
それはアメリカなど外国の例を引くまでもなく明らかでしょう。
ところが、教育に関しては、より短期間に、よりスペシフィックに測定する流れに、なっているようです。

そのようにして、子どもたちを狭い「勉強」という枠の中に押し込めて、
本来誤差のような「差」を拡大解釈して、レッテルを貼っていく。

こういうことは、いつまで続くのでしょう?
少なくとも100年後は、まったく違うことを話していて、昔の人はバカだったなあ、かわいそうだなあと、歴史の時間に話していて欲しいですし、必ずそうなっていると思います。


偏差値について、間違った話をしている人が、
数学を教えている人の中にもいます。
(もう辞めてもらいましたが、うちに来ていた大学生の中にもいました。
 彼らはまあ、ゆとり教育の被害者で、かわいそうなんだと思いますが)
彼らもその、「本当は存在しない差」を拡大解釈し、
子どもたちを歪めてしまっているのに一役買ってしまっている。
情けない限りです。



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